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私が動物愛誤家を”人殺しの戦争好き”と呼ぶ理由 ~その後~

作者: もっぴー

 久しぶりに小説を書こうと思った。

 そして驚く。長編を書き上げてから3年近くブランクがあったり、ちゃんと書けているかという、ある意味正常な判断が一度働いてしまうと、こうも書き進められなくなるものかと。


 一旦このような考えにはまってしまうと、今度は”本当は何を書きたいのか”という、賢者めいた言い訳を並べ始めてしまう。特別私に限ったことではないと思う。こうして動画サイトや漫画を読んだり、部屋の片づけをある程度済ませて行き詰まり、ようやく観念したころに「書くか」というため息が漏れるのである。


 執筆とは苦痛である。

 楽しいと思っている人は天性の才覚であるか、または投稿後の反応を書いてるうちに期待してしまい錯覚に陥ってしまうかのどちらか。大半は後者であり、私もそれに含まれる。苦痛であると思ってしまうと何だか気が進まなくなるが、その苦労あっての完成にまみえるひとしおの達成感も、またほとんどの人が覚える醍醐味ではないだろうか。そうして褒められたり、貶されたりしているうちに、傍から見れば狂っているとしか思えないような執筆の泥沼に入り込んでしまい、もう抜け出せなくなる。


 苦痛こそ執筆なのである。楽しみは後から来るのだ。

 そう一度諦めてしまえば、書くことを恐れるよりも日々少しづつ積み上げていく方がマシかと思える。そうして今日も、ほんの少しずつ昔の回転数を取り戻そうと指を動かしていた。



 さて、なぜこのような前置きを置いたのかは、タイトルをこう記した以上説明しなければならない。

 私は1年4か月前”私が動物愛誤家を”人殺しの戦争好き”と呼ぶ理由”(http://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/566585/)というエッセイを書いたのだが、まったく予想を上回る数の感想をいただいたからだ。しかし当時は私生活の多忙が極まった時期であり、関東に引っ越してから色々あったせいか、今日まで小説家になろうにログインする事すら忘れていた。


 そのため、個別返信するにもこのままでは申し訳が足りないため、改めてエッセイにて自分の考えを表すことにした。本稿はその要件を述べたのち、これからの執筆に対する姿勢を書いて締めくくろうと思う。



 まず”私が動物愛誤家を”人殺しの戦争好き”と呼ぶ理由”というタイトル。これ自体「こんな事書いたっけ?」と今では思うのであるが、基本的な考え方や姿勢は現在に至るまで変わっていない。ただし、実際に動物を愛護する人らに対する”価値観の違い”と言う点には特に注意して考えるようになった。


 先のエッセイはそれぞれの地域で文化を形成する人々に対し、よその者が「それは違うだろ!」と突っ込んでくるのが大きな問題である。価値観を押し付け、自分たちの作法を強要し、行く先は経済活動すら阻害する。私はこの様相に戦争のイメージに重ねた。それが”動物愛誤家の戦争好き”という文言に至る。実際にドンパチが好きな訳ではないと思うが、そのような強制行為は戦争と同様に安易に許容されるべきものではない。考えてほしい。自宅で気ままに夕食のひと時。昨日の晩付け込んだ鶏肉を新鮮な油で揚げ、完成したカリカリのから揚げにレモンを掛ける。その時扉の向こうから「から揚げにレモンなんかふざけんじゃねーぞ没収だ没収!」などと抜かす連中が入ってきたら、貴方ならどうするだろうか。私だったらから揚げにレモンは美味いという価値観を守るため、ネタが冷め切る前に輩を始末する。逆に私が「あ、そっかぁ……」だなんてすぐに手のひらを反す奴だったらどうだろう。侵略側からすれば物わかりの良い者だが、同じレモン派から見れば「何だこいつ」の一言に尽きる。


 価値観の違いとは、いったい何だろう?

 言葉そのままだろ、と思う人が大半であると思う。でも私は、それでは全く不足だと考えるようになった。


 現在私は、吉祥寺のとある雑貨店で働いている。吉祥寺と言えば住みたい街ナンバー1とよく言われる。ナンバー1だけあって、都内の有名どころにしては非常に親子連れが多い。多い。多い。それくらい多い。だから店に入って欲しいものを買ってもらえない子供が「ああ゛あ゛―――!! ママ買ってえ゛え゛え゛え゛―――!!」などと駄々をこねたり、店の外で待たされた赤子がわんわん泣き出し、精算の列に並んでいる親が慌てふためく様子など日常茶飯事なのである。


 そんな中、何気ない子供の言葉遣いが”人間の価値観の違い”というものを象徴しているかのように思えた。


 それは先ほどにも述べたように、欲しいものを買ってもらえない子供が駄々をこねるシーンである。


「ママ! これ買いたい!!」


 ん?

 何か変に思わないだろうか。


「あたしもこれ買いたい!!」


 少なくとも私はここで疑問符が浮かんだ。

 「買いたい!」とは何だろうか。これは、子供が欲しいものを購入したいという意志表示である。

 しかし当たり前だが、彼らは彼ら自身が所有する金銭がある訳ではない。当然ながら、母親か父親の財布からせしめ、上手くいけばにんまり、叶わなければ大泣きという具合だ。


 しかしこうなると、正しくは「買って欲しい!」になるはずである。お願いしているのだから、あたかも自分自身の経済力で買えることが前提のように話すのはおかしい。いやでも子供のいう事だろ? と思うが、こここそ重要なポイントだと私は思う。


 子供にとって、親の財布というのは自分の財布みたいなもの――と言うよりは、まだ子供には個人の所有する金銭と言う概念がまだ希薄であるという言い方がより近い。そのため、お願いするというよりは自分の意志をごり押しして物を買わせる、という魂胆が露呈した叫びこそ「買いたい!」に行きつくものだと思う。



 考え過ぎだろうか? うん、たぶん考え過ぎである。

 ともかく、人はそれぞれ価値観を有しており、それは生まれや育ち、その時の状況によって左右され、また簡単に左右されるものでもない。簡単に左右されてしまうのもまた考えものだ。主張に根拠や事例があるのかはともかく、一貫性のない態度のままでは誰にも相手にされなくなるのがオチだからだ。



 ここで動物愛護という観点に戻ってみよう。やはり人の価値観はそれぞれであり、根拠や事例の有無にかかわらず、その人が持っている考えと言うのは早々変わらないし、またコロコロ変わっても困りものである。だから私は動物愛誤家の主張や考えを認めそして許すだなんて誰が言ったのだろうか。前述のとおり私の基本的な考えはほぼ変わっていない。ただあの時は冒頭に書いたツイートの件や、それまでため込んでいた言葉が溢れ出して、少々荒っぽい言い口になったり、コメントをされた相手をむきになって相手にするなど、人格的に至らない所が多々あった。その点については反省しているし、当該者を含め気を悪くされた方々には頭を下げたと思っている。


 別に悪いとは思ってない。


 今まで長編を9作ほど書いてきたが、これほどまでに感想を頂けたのは初めてだった。タイトルがセンセーショナルだったという事もあると思うが、私はここにきてようやく「これが私の物書きとしてやっていくべきスタンス」と思った。


 自分が思う問題を叩き上げ、振り上げたこぶしを相手に向け、正中線を砕くように考えと主張をぶち込む。それが物語の情景になり、主人公たちの猛る唸り声になれば最高である。誰にとっても受け入れられる正論を書けるような奴は憲法でも書いていればいい。私は私が思う正しいを全力でぶち込むべきということが、書き始めて7年近く立ちようやく思い至った所である。



 動物愛護の話はどうなった? と自分で思い始めたので、それについては以下にまとめる。

 価値観は人それぞれである。もしその土地の文化で猫を食うのであれば、例え日本では禁忌でもその土地内でやっている限りは突っ込むべきではない。ただ、自分が「猫食いはダメ」と言う意見ははっきりと持ち続けるべきである。そうすれば自然と、筋違いな突っ込みをしてくる連中にもどう対応すればいいのかが見えてくる。まず話し相手にするべきかという根本的なところから考える。筋違いな間違いを犯した人は他人に相手にされなくなる。すると、まともな神経が残っているならば、どうやったら相手をしてくれるだろうと省みる。そこからがようやく始まりに至る。

 そして相手を自分の土俵に上がらせると、今度は自分の正しさがひたすら試される。それに備えて、日々考える事を止めないのが、我々個人がするべき最低限の努力である――というのが、動物愛護に関する私の現在の考えである。



 そしてこれからの執筆に対する姿勢は、先ほど述べた通りだ。

 その時点で、自分の思っている疑問や問題に対し、知識と経験と主張によって強靭に固く絞ったこぶしを振り上げ、倫理など(最低限みんなに相手にされる範囲で)糞食らえと高らかに叫びつつ、読者の身体/精神に深々と突き立て、癒えようのないクレーターを残す。面白い要素はもちろん重要であるが、それ以上に一貫した姿勢と言うものが大事だと気付くまでに、私は投稿用の長編だけでも9作書き上げるまでいまいち理解できなかった。1作目は学園恋愛もの、2作目は青春部活もの、3作目はバトルもの、4作目はMMORPGもの、5作目はミリタリーバトルもの、6作目はラブコメ、7作目はアイドルもの、8作目は日常もの、9作目は空戦もの……意外に気付かないものである。本当はこういうスタンスを恐れないで、こういう文体で、こういう作品を書いてみたいという事を。



 さて、そんな自覚や決意が反映されているかはともかく、現在は東方の二次創作ものを執筆中である。二次創作というと安易(?)なイメージがあるかもしれないが、逆に私はちゃんとした二次創作小説を書いたことがなかったのでかえって新鮮だ。もちろん多くの方に読んでいただきたいので、東方と言う作品を全く知らない方にも読めるよう内容を構築している。連載形式で投稿したいので、出来上がった際にはぜひご覧いただきたいと思う。




 本稿のまとめは『ブレない価値観が重要』であることと、『時代の流れに対応できる柔軟な考えが必要』の2点である。

 ご覧いただき、ありがとうございました。

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