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最終章 “So Into You”〔2〕



 何でもない顔をして私を振り返った先生は、何でもない顔のまま問いかけてきた。


「昨夜は夜更かしでもしたのかな。もう放課後だよ」

「先生? え? なんで……」

「あまりによく眠っていたから、起こせなかったそうだ」


 寝ぼけた頭では現状をよく理解できない。浮かぶのは疑問符だけだ。

 私が聞きたいのはなぜ放課後になってしまったか、ではないんだけど。

 なぜ先生がここに居るか、と言うことなんだけど。

 先生にそんなことがわからないはずはないのに、彼はあえて話をかみ合わせないようにしている気がした。


「あの、そうではなくて……。どうして先生がここに?」


 おずおずと尋ねると、先生が少し黙った後、また答えてくれる。


「ここの施錠をね。適当に話をつけて、請け負ったから」

「ああ、そうですか……」


 面食らったまま、私はとりあえず納得した。

 納得しては見たけれど、やっぱりおかしい。寝ぼけ頭でもそのくらいわかる。


「……どうしてそんなことを?」

「聞くまでもないだろう?」


 一瞬、返された言葉の意味が飲み込めなくて、ぼんやりと聞き流した。

 それからその深い意味を理解し、思わず心を乱した。

 私が休んでいるからここに来たと、そう理解するのはうぬぼれだろうか……。


 もしかしたらまた心配してくれたのかもしれない。

 保健室に来た時点での検温の記録もそこにあるのだし、熱がないことはばれてしまっただろうけれど。


 彼に対しなんと返答していいかわからず、私は視線を泳がせた。


 見た目にはわからない、先生の内心を予測する。

 そしてまた私の頭に、あのシーンが蘇ることになった。

 私を好きだと言ってくれた、甘さと切なさを含んだ心地の良い声……。

 そこまでを思い出しただけなら幸せでいられるのだけど、回想がその結末まで至ってしまえば、そんな幸せなんて消え去ってしまう。


 二度目の告白を受けて、背中から抱きしめられたまま黙り込んだ私。

 先生の腕に抱かれているのは心地良くて、ずっとそのままでいたかった。

 胸が苦しくて耐えられなくて、すぐにでも離れたいと思った。


 私はどうすべきなのか。

 何が正しくて何がそうでないのか。もう、わからなくなっていた。


 葛藤は涙となって、私の頬を何度も伝う。

 背中全体で感じ取る愛しい体温。

 自分でも怖くなるほど強く、彼に焦がれてやまない心。


 私の身体を振り向かせる先生に、私は抗わなかった。

 抵抗ひとつせず向き合って、涙に濡れた私のまつげに口付ける、優しい唇を受け入れる。


 先生、と、私はいとおしげに彼を呼んだ。

 彼は答える代わりに、私の目のふちをそっと指でなぞった。

 しばらくの間、恋人同士のように見つめあい、思いのままに、存分に幸せを享受して。


 そして……

 ……やはり私の頑なな頭では、同じ答えに至るしかなかった。

 彼のために選択すべき、正しいと思われる答えに。

 そのまま黙っているわけには、いかなかったのだ。


 ――“私は、タカシを選びます”


 たったその一言で、私はあの場面を終わらせたのに。

 受け入れたような態度をとりながら拒否をするという、卑怯で最低な態度をとったのに。


 どうしてだろう。

 あの後初めて二人きりになった今、先生は恨み言を言うでも、感情をぶつけてくるでもなく、あくまでも『普通』なままだ。


 私にはそれが解せなかった。彼の心がわからなかった。


 ……でも、よかったじゃないか。

 先生が心を乱さずに済んだのなら、それで。


 誰もいない保健室に落ちる沈黙。

 その沈黙に、私はぽつりと言葉を落とす。


「大人って、割り切るのが上手ですよね。……先生が、大人でよかった」


 大人だから、子供のように失恋の痛みに囚われることもないのだろう。

 そう――私とは違うのだ。


 またしばらく黙ってから、先生が口を開いた。


「大人でよかった、ね……俺はそうは思わないけどね」


 わざわざ持ってきたのか、手元の英語の書類に視線を落としながら、彼は口元だけで笑う。


「子どもなら、恋愛感情も思い込みで済ますことができる。……だが大人になって誰かを想うと、子どものそれよりも随分と厄介なようでね。年を取るたびに頑なになってきた分、一度心が動いてしまえば、簡単に切り替えることはできない」


 何も言えず、私はただ黙って聞いていた。


「君の言い分は、以前俺が言っていたことだ。よく分かるけどね。……気づけば、手を回してまでここに来ていた。悪いね」

「そんな……」


 言葉に詰まりながら、私は無神経で浅はかな自分を悔いた。

 大人だから。表情を隠すのも、気持ちのコントロールも上手いのかもしれない。

 でもそれは表面的に出す感情を操るのが上手いというだけで、その本質の心は同じだ。


 告げられた先生の気持ちに嘘がないことなんて、私にだってわかる。

 私が苦しいと感じているのと同じ気持ちを、先生が感じていないはずはなかったのに。私の態度が、彼を傷つけなかったはずはないのに。


「私の方こそ、すいません……」

「別に、謝る必要はないよ。確かに俺は君にとって、教師でしかない。その事実を変えることはできないからね。簡単なことじゃないし、君の選択が間違っているとは言わない。一方的な覚悟だけでは、成り立たないから」


 責める口調ではなかったのに、罪悪感を感じて、私は黙り込んだ。

 私は覚悟を決めるべきだったのだろうか。先生を危険にさらす覚悟を。

 ……ううん、やっぱりそんなはずはない。

 私の頭に、先生の大きな掌がぽんと乗せられる。


「そんな顔をしなくていい。君がここで過ごし、成長し、卒業していくのを見ているよ。生徒を見守っていくのがその役割であるなら、この仕事も悪くない。そう思えたのは、君のおかげだ」


 私は先生の穏やかな眼差しの前で目を伏せた。

 どうしてこんな時まで、この人は私に甘いんだろう。

 責めてくれた方が楽だったのに。私は私を否定も肯定もできないまま、動けないでいるのに。


「もう帰るだろう? 片付けたらここを閉めるから、少し待って」


 先生のその台詞で、話は切り上げられてしまった。

 机上の書類をまとめ始めた先生の背中を、私はただじっと見つめていた。





次回更新は1月27日(月)夕方です。

ぜひまた読みに来てくださいね!



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