第十四章 “Tactics Of The Love”〔1〕
少しでも物音をたてれば、見つかってしまうだろう。さすがに何も言わなくなった先生も、私の背後で、タカシの動向を観察しているみたいだった。
扉を開けるわけではなく、タカシはそこに立ったまま何かをしている。ややあって、マナーモードにしていた私のスマートフォンが、震えだした。考えるまでもない。タカシが私に電話をかけているのだ。
バイブレーションの音で、ばれてしまうかも――そう思いつめるだけで何もできない。扉一枚しかないのだ。動いたら気配で見つかる可能性がある。ポケットの中で規則的に、唸るような音を出し続けるスマートフォンを止めることもできず、ただただ息を詰めていた。
第十四章 “Tactics Of The Love”
永遠と思えるほどに長く唸り続けていたバイブレーションが、ようやく途切れた。同時に、まるで思い立ったかのように、タカシの気配が唐突に動いて。そのまま翔ける足音とともに離れていく。物音と気配だけでも、その苛立ちを容易に感じ取れた。
どうやら気づかれなくて、心底ほっとした私は強張っていた体の緊張を半分解いた。なぜ半分なのかと言うと、先生がまだ離してくれないからだ。
タカシはやり過ごせても、誰かが施錠しに来るかもしれないのに。一瞬迷ったけれど、私は先生の腕に手をかけ、引き離しにかかった。あっけなく解かれた拘束。おかげで自由を手にした私は、急いで扉に手をかける。
けれどもそんな私の手に、背後から延びた先生の手が重なって、扉を開けようとする私の手をやんわりと押しとどめた。自分の心音がどきりと聞こえる。背中全体に彼の身体が当たって、再び感じる彼の温度。別に強く止められたわけではないのに、振り切ってそのまま出て行けばいいのに、なぜかそれができない。
私が体温が低いのか、彼の体温が高いのか。いつも先生はあたたかい。そのあたたかさは包まれていると錯覚させて、私の行動意欲を奪うのだ。心地良い。そして離れたくなくなる。甘えて縋りたくなる。好きだという気持ちが、私を阻む。
「君に一つ、教えてやるよ」
ふと、先生が背後から言った。閉鎖されたこの室内には誰もいなければ音もない。それまで私も先生もだまりこんでいたので、その発した声がやけに耳に響いた気がした。
扉の上部の曇りガラスから入り込んでくる光を見つめ、私は視界をそれでいっぱいにする。背後にある薄暗がりと、そして誰よりも私の心を乱す存在と。自分を失いそうになるこの状況から、目を逸らせ。
「隠したいことがあるなら、揺らいではいけない。昨日もそうだが、こうして逃げ出したりすると――それは君の隙になる」
単刀直入に切り出されて、私は光をみつめすぎてくらみかけていた目で、ゆっくりと瞬きした。逃げるなと命じられたわけではなくても、そう言われては最早逃げ出すことはできない。じわりとにじむ動揺。どう返せば誤魔化せるだろうか。いくら考えてみても、私もタカシとそうレベルは変わらないのだ。彼に挑んで、私が彼に勝てるなどとは到底思えなかった。
「日常と言うのはどうでもいいことがほとんどだが、彼の君に対する態度は気に食わない。ここ数日は特にね。だから行動に出ることにした」
静かな声音で、彼が続ける。エスカレートしてきたタカシの態度に、先生も気づいていたらしい。けれどもよく考えてみればそれもおかしな話だ。彼が生徒の――タカシの態度の変化に気付くなんて。
「君が君の言う通り彼をまっすぐ見ていたなら、俺も引く術くらい知っている。だがそうは見えなかったし、君の周りには彼しかいない。君の矛盾の理由を考えてみれば簡単な話だ。もし俺の予想通りなら、そんな理由で君を逃す気はない」
感づかれている――返す言葉に迷ったまま、私はじっとだまりこんだ。刑事に尋問される容疑者の心理はこんな感じだろうか。もうほぼバレているのに、認めればそれで終わりになる。でもこのまま黙ってはいられない。顔に出さないように努めながら、必死に心を落ちつける。
「先生の予測は杞憂です。確実にその通りだと言い切れますか? 恋人同士なんです、喧嘩のひとつふたつくらい普通でしょう」
淡々とした声で私は言い放った。タカシのことすらも利用して、嘘をついて。私は最悪な人間かもしれない。でも完璧な生徒で在れるならそれでいい。間違ってなんかいないのだ。
「確かにね、言い切れるわけじゃない。君は見かけによらず、頑固なようだしね。このまま押しきってみても、君は折れないんだろう? それだと彼と同じだからね。だがさっきも言ったけど、俺も引き下がる気はない」
言って、先生は口角を片方だけ、僅かに上げた。
「君に譲れないものがあるように、俺にも譲れないものがある。逃げたいのなら、君ももう少し画策して、俺を上手く撒いてみることだ。……駆け引きだよ」
戯れな言葉を紡ぐ、大人の響きを帯びたどこか甘い声。
結局私は彼の意のままなのかもしれない。逃げ出そうとすればするほど、太刀打ちできない。すでに捕らわれている心は、簡単にその深みにはまっていく気がした。