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第十三章 “Twilight ”〔7〕



 結局、昨日はスマートフォンを取り戻したのはよかったけれど、代わりに英語の教科書を忘れてきてしまった。でも、また堂々巡りにするわけにはいかなくて。だから私は、逃げる選択肢を選び続けることにした。


 放課後の教室は人が少ない。誰もいなくなった自分のクラスで、私は一人で席についている。がらんとしてどこか寂しい空間に、ぽつんと取り残されたような気持ちだった。


 今日は、彼の授業はなかった。でも明日はあるから、教科書は今日中に返してもらう必要がある。


「麻耶」


 ふと、馴染んだ声がぼんやりしていた私を呼んで。顔を上げると、そこには私が待っていた人物がたっていた。ちょっと気遣わしげに私を見ているその人物――ユキに、私はにこりと笑いかける。


「ありがとう。何も話さないのに頼んで、ごめんね」

「ううん。何があったかはわからなくても、麻耶の気持ちくらいは なんとなくわかってるから。……はい、これ」


 言って、ユキが差し出してくれたのは、私の英語の教科書。自分で取りにいけない私は、ユキにお願いしたのだ。教科書をとってきた後ゆっくり話したいからと、ユキは部活を休んでまで付き合ってくれた。前の席の椅子の向きを変えて、そこに座って私に向かい合うユキ。


「月原先生さ、あたしが行ったって顔も上げてくれなくて。無愛想な態度で延々と仕事されて、ムカついたんだけどさ。麻耶の名前出したら、あたしの顔見たよ。びっくりした」


 彼の話題が出ただけで反応する心は相変わらずで、私は何も変われてはいない。全て吹っ切るには、まだ時間が浅すぎるのだ。物言わない私を見遣って、ユキは続ける。


「表情が乏しい人じゃない? あたしを見たって言っても別に普通の顔してたし、そのあとも普通だったし。すごくわかりにくいんだけど……でもさ、あたしわかったよ」


 ユキに悪気はないのだとしても、この話の流れは思わしくない。耳を塞ぎたい気持ちで俯き、私はただ黙っていた。


「ねぇ、麻耶。やっぱり月原先生って、麻耶のこ――」

「言わないで」


 切羽詰まったように言葉を被せた私を見て、ユキが驚いたように口をつぐむ。


「お願い……言わないで」


 蚊の鳴くような声で繰り返した私を、ユキは気遣わしげに見つめてきた。遮ったユキの台詞の続き。その通りだったとしても、そうじゃなかったとしても。私は知らないままでいなければいけないのだ。


 気まずい沈黙がそこに流れ出したとき、ふと廊下から誰かの足音が聞こえた。教室の入り口に視線を向けてみると、今はあまり見たくなかった人物が姿を現す。


「麻耶」


 不機嫌な強い口調で、いつものように名前を呼ばれる。その人物――タカシを見るなり、ユキは露骨に嫌な顔をした。


「中山、ちょっと外してくんない。麻耶と大事な話があるから」

「は、何言ってんの? 嫌よ。誰があんたなんかと大事な麻耶を、二人きりになんてさせると思う? あたしはね、北村。あんたが大嫌いなの。あんた麻耶にフラれてんでしょ、さっさと消えてくれない」


 タカシを追い払わんばかりの勢いで、忌々しげに突っぱねるユキ。二人は同じテニス部なのだけれど、タカシが幽霊部員なのも手伝ってか、ユキはタカシのことを自己中心的で傲慢だと評して毛嫌いしている。幼馴染の縁や情けなんて切ってしまえと、いつも言われていた。でも――ひどいかもしれないけど、今となってはそうしておけばよかったかな、なんてことを思ってしまう。


 でもタカシのことを恨むのはお門違いだ。先生から離れるべきなのは、生徒である私の運命だったのだから。


 タカシが視線で私を促す。従わなければならない理由を、彼は私に突きつけている。仕方なく、私は口を開いた。


「ユキ、お願い。先に帰って」


 ユキはさっきよりも驚いた顔で私を見て、でも私の表情で何か察したのか、困惑した様子だった。少しためらった後に、わかったと呟いてから席を立ち、鞄を持って教室を出ていく。


 ユキの姿が見えなくなったのを確認した後、タカシが私に向き直った。タカシは私の机にある英語の教科書を見つけて、ふんと鼻で嘲笑する。


「必死だな。まだ気に入られたいのかよ。……あいつはお前なんて、本当は相手にしてない。ガキは簡単だって、心の中じゃ笑ってんだ。ちょっと遊んでやろうって――」

「タカシ」


 先生とのことをとやかく言われて不機嫌になった気持ちの色が、そのまま声として出て行った。さすがに黙ったタカシだったけど、高圧的な態度を改める気はないようだった。


「おまえ、オレと付き合えよ。……おまえは断れない。約束、覚えてるよな?」


 あまりに理不尽なことを一方的に命じられて、私は唇をかんだ。確かに、タカシはユキの言う通り自己中心的な面も多いけど、優しいところもあると思っていたのに……。弱みを握られて、私はタカシに逆らえない。だけど頷けなかった。


「わかったなら、キスしろよ」


 私の気持ちなんて知ったことかとばかりに、タカシが畳み掛ける。黙ってじっとしていたら、乱暴に立ち上がらされて、引き寄せられてしまった。


 信じていた家族に裏切られた気分で、私は顔を逸らす。そう簡単に割り切れるはずなんてない。好きでもないのに、キスをしろだなんて。


「麻耶。オレは……軽蔑されてもいい。いくらでも悪役になっておまえを手に入れてやる」


 それまでの強気な様子から、若干落ちた声のトーン。ここまでのことをされて、もう見放してしまえばいいのに、やはり幼なじみの情が邪魔をする。


 ひしひしと伝わってくる感情を、鮮明に理解する。そして、どうしても同調してしまうのだ。やはり同じだ。私もタカシも。決して手に入らないのに、募る恋慕の情に溺れて。


 掴まれた腕が――痛い。タカシはいつもこうだ。きっと力加減がわからないんだろう。


「あいつに取られるくらいなら、オレは――」


 切羽詰まったようなタカシの台詞は、けれどもそこで途絶えて。そのままタカシが私から離れた。誰かに引き離されたみたいだった。


 強くつかまれていた腕は、解放されてもまだじんじんと痛みを伴っている。何が起きたのかよくわからなくて、私は恐る恐る顔を上げた。と同時に、平手打ちの派手な音が、がらんとした教室に鳴り響く。


「何してんのよ!? 北村、あんたねぇっ!」


 タカシに向かってそう叫んだ主は、怒りの形相をしたユキだった。そうだ、頑固で勝ち気な性格のユキが、あの状況で大人しく帰るわけはなかった。


 どうやらさっきの平手打ちの音は、ユキがタカシをぶった音だったらしい。タカシが頬を抑えながら、不愉快極まりないといった顔をしてユキを見ている。


 しかしすぐに表情を切り替え、タカシはさも不敵に見せたいとばかりに笑った。そして私とタカシの間に割って入ったユキではなく、なぜか誰もいないはずの私の後方を見遣る。


「またおまえかよ。ふん、よっぽど麻耶にご執心だな」


 その子供じみたまなざしが、敵意をむき出しにして私の背後へ睨みを利かせる。タカシの素振りから、自分の後方に第三者の存在を確認した私は、急いで振り返った。嫌な予感は、当たった。考えなくてもわかる、ユキが連れてきたんだ。どうしてこんなことに。


 いつも通りにタカシに反論などしようとしない先生は、黙ってそこに立っている。自分の勝利を確信して決して疑わないような、余裕と狡さの混同した目をして、タカシが私を向いた。


「麻耶」


 強い声音で私の名を呼び、タカシが私をけしかける。またさっきと同じだ。しかも今は、先生もいるのに……。悔しい思いをかみ殺しながら、渋々と私は口を開く。


「ユキ、ごめん帰って。先生も……すいません、外してもらえますか」

「何言ってんの、そんなことするわけないでしょ!? 麻耶どうしちゃったのよ?」

 

 今度ばかりは従わないとばかりに、ユキが素早く反論した。表情を固めて、私は最大限の努力を持って心をひた隠しにする。


「ユキ」


 冷たい声が出て行った。きっと私も、先ほど私の名前ひとつ呼んで私を従わせようとしたタカシと、同じような顔をしていることだろう。ユキは焦れたような顔をして、けれどもついに何も言えなくなったらしく、身をひるがえして教室を出て行った。さすがに今回は帰ってしまっただろう。


 やや満足げに見えたタカシだったけれど、またすぐにその表情を戻す。私とタカシ二つの視線から帰れと訴えられても、彼はいつも通り、揺らがずにそこにあった。


「悪いが俺は従えない。神島に用があるからね」


 抑揚なく教科書でも読み上げたような彼の声音は、放課後の教室に、授業中と同じ響きを残して行った。  



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