第十三章 “Twilight ”〔6〕
いつかも使った折り畳み式の椅子を持ってきて、先生の正面に座った。やっぱり静かだ。静かすぎていたたまれなかった。テストを受けているとき以上の緊張感の中で、問題を解きはじめる。
研ぎ澄まされた聴覚は、時計の針の音をやけに大きく拾ってしまう。力加減を間違ってシャープペンシルの芯が折れないようにとか、そういうことまで気になった。
けれども問題を数問解いたところで、私の緊張は若干緩む。間違ったらどうなるか気にしたけれど、どうやらその必要はなかった。元々章のまとめとしての確認問題だから、ちゃんと勉強をやっていれば難易度はそんなに高いものじゃない。
正面の先生はといえば、先ほどの『時間つぶし』の書類に目を落としている。やっぱり先生の家で問題を解いていたときのあの視線はわざとで、私の緊張を煽ってミスさせようとしていたのか。
「……終わりました」
言って 解の書きこまれた教科書を差し出すと、彼は手元の書類を無造作に置いてから、無言で受け取った。マルやバツをつけることはせず、たださっと回答を目で追うだけで終わらせられたので、教科書はすぐに戻ってきた。
「間違えても、構わなかったんだけどね。……約束だ、返すよ」
何も指摘されなかったということは、無事正解していたらしい。あっさりと告げた先生は、少し手を伸ばして私のスマートフォンを手に取る。書類の影で私からは丁度死角になっていただけで、普通に机の上に置いてあったようだ。
望み通りに手渡されたスマートフォン。それまでの先生の様子から、返してもらうには手こずるだろうと思っていたので、こうもすんなりいってしまうと逆に戸惑う。
「じゃあ、帰っていいよ」
その台詞とともに、先生は書類を再び手に取った。あっけなく書類に奪われてしまった彼の視線。
この場所で同じ台詞を聞いた、以前のことを思い出す。私が生徒に戻ろうとすることにあんなにも苦戦していたというのに、先生は難なく、当然のように以前のセンセイの顔を取り戻している。
大人じゃないなんて言っていたけれど、やっぱり先生は大人なんだろう。彼は、『センセイ』。多少羽目を外したように見えても、結果として結局そこに戻ってくる。タカシや私とは違い、決してがむしゃらにはならない。適度にセーブをかけて、自分を保って。
帰っていいよは、帰れという意味で。その台詞に何度打ちひしがれたことか。でも、今は違うと思った。というかそう思いたかったのかもしれない。椅子を元のように折りたたんで壁に立てかけながら、私は思わず聞いていた。
「それは――、帰れという意味ですか?」
「……。そう思ってはいないんだろう?」
否定するでもなく肯定するでもなく、逆に私に問い返す。一枚も二枚も上手の切り返しを受けて、私は自分の発言を後悔した。
「君はわかっていないようだし、以前の俺なら違っていたかもしれないが……仕掛けてくるなら乗ってやろうかな」
ややあって、彼の立ち上がる気配を背後に感じ、動けなくなる。自業自得だというしかない。こうして煽って、彼の反応はどうなのかなんとなくわかっていた。自分を振り返ってみればわかる――確信犯だ。
追われると逃げる意思を働かせるくせに、いざ引かれると怯むのはどうしてだろう。壁に向いたままの私の背後を難なくとって、先生が壁に手をついた。落ちてきた影に、視界が若干暗くなる。
「知りたい? 建前の裏には必ず本音がある。勿論、俺にも」
静かな声音が頭の後ろから降りてきた。何も言えないまま、私は冷たい椅子のパイプを握りしめる。
「望まれるままでいるのも悪くないと思った。だけど、どうやら俺にも人並みな感情はあったみたいでね。君の答えをわかっていても……打ち明けてみたくなってくる」
彼の表情は窺い知れなくても、心を閉ざして背中で聞いていても、彼の言葉は私の感情をひどく煽りつけた。ぐらぐら揺れる自分の感情に、吐き気すら覚えて。強く目を閉じて、私を支配している強烈なジレンマに耐える。
ふと、肩を押されて、私の身体はくるりと反転させられた。再び後ろ手に掴んだ椅子が、ガチャリと無機質な音を奏でる。
反射的に見上げる瞳に見つけた強いまなざしは、彼の感情を思わせた。惹き込まれた私は取り繕うのを忘れて、感情のままにその瞳を見つめる。気づかれてしまったのか、彼はやや目を細めてそんな私を眺めた。
「君は、今自分がどんな顔をしているのか、わかっているのかな」
「っ!」
ふと頬に添えられた手のひらを感じ、息を飲み込む。逸らしていた顔の向きを戻されて、強制的に交差する視線。
「君の態度は、常に言動と矛盾している。……何を隠している?」
探るように見つめられて、どきり、と心臓が高鳴る。それは彼を前にした時に感じる甘さを含んだものとは違って、キャンプファイヤーの前に呼び出されたあの時の感情に酷似している。恐怖――私が最も恐れていること。
タカシのこと。私の矛盾した態度の根元。あのことを先生に知らせる気はないのだ。もし先生が知ったとして、彼は自分を守ることは きっとしない。
あの写真で危うくなるのは先生だけだ。顔の映っていない私は見つかることはない。だからこそ怖かった。先生は抗わないまま、不名誉も失職も受け入れてしまいそうで――。
センセイと生徒。タカシがいてもいなくても、私の思いが成就することはない。それならば私がタカシをやり過ごせば、それで済む話なのだ。彼に知らせる必要はない。否、知らせてはいけない。
「何も……隠してなんて……」
震える声で不得意な嘘を吐き出してみても、到底彼を騙せたとは思えなかった。このままここに居たら、その視線だけで全てを見透かされてしまいそうで、居てもたってもいられず、私は身を翻した。
そのまま振り返らず、部屋から飛び出す。私は逃げ出したのだ。逃避するのは楽だ。逃げて逃げて、全てうやむやになってしまえばいい。
何も考えずに必死に走って、息がきれはじめたところでようやく立ち止まる。放課後だからか廊下には誰もいなかった。自然と苦い笑みが浮かんだ。……何をやっているんだろう、私は。念のため振り返ってみたけれど、先生は当然追ってきてはいなかった。
廊下に立ち尽くしたまま、私は無事に戻ってきたスマートフォンを握りしめた。このスマートフォンで、先生が私と会話していたんだと思うと、たったそれだけのことなのに胸が騒いだ。