第十三章 “Twilight ”〔5〕
徹底して心を殺そうとした私は、放課後が訪れても、そして今、準備室の前に立ってみても、思ったほどの動揺は感じていなかった。以前ここに立った時とは対照的な静かな気持ちで、そっと扉をノックする。
こうやって気持ちをコントロールして、それに慣れて。積み重ねていった先が、大人になるということなのかもしれないとふと思う。
遠慮がちに踏み入った室内では、以前見た時と同じように、先生が机で書類に何か書いていた。
「仕事中にすいません。邪魔しないようにすぐに出ていきますから……」
声をかけた私をちらと見た先生は、すぐに手元の書類をとじてしまった。そんな反応に焦る。今、邪魔したくないんだと、私の意思は伝えたはずなのに。スマートフォンを返してもらいに来ただけで、わざわざ仕事を中断してもらう必要もない。
「別に、これは時間潰しにやっていただけだから、気にしなくていいよ」
私が気にし出すのをわかっていたのか、先生がそんなことを言った。先生らしいといえばそうなのかもしれないけど、仕事すら時間潰しだなんて、さすがにそんなわけはない。先生の授業は分かりやすいと思う。ちゃんと仕事をしていなければあんな授業はできないだろう。
「そんな顔をしなくても、いつも適当な訳じゃない。仕事はそれなりにやっているさ」
先生は私の困惑をちょっと違う意味にとったらしい。一呼吸置いて、彼は続ける。
「ただ今日は、君を待っていたから」
殺していたはずの心は、たった一言で簡単に揺さぶられてしまった。気づかれないように、そっと息をのみこむ。真っ直ぐと言うか、揺らぎのない視線だと思った。その視線を受けるほど、胸の奥が落ち着きを無くしていく。
初めてここに来たときなんて、私のことなんて見向きもせず、書類しか見ていなかったのに。あの時とのあまりの変わりように驚いてしまう。
「時間をとらせるつもりはありませんでした。すいません」
でも先生が強引だったから――と恨み言のようなことを続けて言いかけて、慌てて飲み込む。泊めてもらって、風邪をひいて熱を出したり、グラスを割ったり。あまつさえスマートフォンまで忘れて返してもらいに来ている分際で、それはないだろう。
そうだ、スマートフォン。とにかくこれ以上会話をする必要はない。ぼろが出る前に、さっさと目的を果たしてここをはなれるべきだ。
「スマートフォン、返してもらえますか」
「ああ、そうだったね。あれがなければ、君もここに来ることもなかっただろうにね」
気の毒にとでも言いたげな口ぶりで、でもなぜか先生は一向に返してくれる気配はない。ざっと見渡した所見当たらないし。
焦れて、どうしたものかと考える私の手元に、先生はちらと視線を寄越した。握りしめていた英語の教科書とペン。質問しに来たと装うため持ってきたのだ。
「それが君の“口実”?」
問いかけに頷いて、私は淡々と答える。
「不自然に思われたら大変ですから。誰かに――」
「誤解されないように?」
ふと言葉を途中で拾われて、私は口をつぐんだ。
「君の気持ちを思えば、すぐに返してやるべきだろうけどね。簡単に返してしまっては、俺が面白く無いかな……。だから君には悪いが、まだ返さない」
私は目を丸くした。ここにきて まだ返さないなんて言われるなんて思わなかった。先生の部屋にいたときは、状況が状況だったし、彼の私生活の中に飛び込んだのだから 多少その素顔を見せていたのだとしても。ここはもう学校で、私は生徒で。彼はセンセイとしてここにいる。
これまで先生を見つめてきて、私の中に出来上がっていた彼の人物像を思う。去る者追わずというか、先生は相手の望まない、強引なことはあまりしないと思っていた。
自分の立ち位置を理解し、物わかりのいい対応で、すべて流して。きっと今までそうやって生きてきた人だ。勿論、私は彼のことをよく知っているわけでもなく、彼も心を伴う一人の人間で。もしかしたらこういう顔も一面として、彼は持っていたんだろう。
だけどそれを完全に表面に、態度に出してしまうかどうかはまた別の話だ。今までの先生を見ていれば、決して隠せなかったなんてはずはないし……。思案していたことがそのまま顔に出ていたのか、先生が言った。
「こんな子供じみた対応をされるだなんて意外? 残念ながら俺は、君が思っているほど大人じゃないし、できた人間でもないよ。こうして、自分の感情を優先しようとしたりもする。……自分でも驚いたというか、意外なんだけどね」
何と言葉を返していいか、そもそも何か言うべきなのかわからなかった。とにかくいたたまれないし、早くここを出なければならない。完璧な優等生のはずの私も、この人の前に立つと途端に脆くなってしまう。さすがに私も学習済みだ。
「どうしたら、返してもらえますか」
私は理性だけを働かせて尋ねた。理性と感情がこうも別物だったなんて。返してもらわないと困るけれど、返されたくないと思っている自分が居る。この場にふさわしい冷静な私の問いに、彼は少し考えてから答えた。
「そうだな、……君の口実。それも利用させてもらおうかな」
促されるままに、私は先生の机に教科書を広げた。やや広めの机を挟んで反対側、座っている先生と向かい合う。戸惑っているのは、視線の高さがいつもと逆で違和感があるから。ただそれだけだ。
しんとしたこの部屋は、私を落ち着かなくさせる。彼がそのきれいな指で 私の教科書をめくる小さな音すらも耳につくほどに静かだ。やがて めくるのをやめた指先が示したそこには、彼の部屋で、課題だと言われた数問の問題があった。
「この問題を解いて、全て正解できたら返してやるよ。課題に出していたはずだけど、まだやっていないみたいだしね」
「……すいません」
謝ってみたものの、先生はやっぱり、別に怒っているわけじゃないみたいだ。でも気まずい。こんなことなら、ちゃんとやっておけばよかった。
前回は全く答えられないという失態を犯してしまったから、一応家に帰ってから復習をしたことはした。だけどあまり身が入らなかったのも事実で、問題にも結局手を付けていない。だから全問正解できるか、と問われれば自信はあまりないし……。
「もし、間違えたら……?」
やけに乾いていた私の口は、ためらいがちにそんなことを言った。よしておけばいいものを、なにを踏み込んで聞いているのか。
先生は腕を組み、気だるげな動作で背もたれに寄りかかった。口角を若干上げた、ともすれば意地悪くも見えるいつかの笑い方で――。
「どうすると思う?」
意味ありげな口調と共に試すように見上げられると、綻び出てしまいそうな本心を意識し、我を忘れかけた。