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第十三章 “Twilight ”〔2〕



 本当ならこの部屋を、朝早くに出るべきだったのだ。時間はもうすぐ九時を回ろうとしている。風邪をひいていたとはいえ、これは私の落ち度だ。人目につくかもしれないこんな時間に、先生と一緒に行動することなんてできない。


 でも先生はきっと、私を送ろうとするだろう。だから見つからないように、手早くうまくやらないと。そうやって思い詰めるのは逆効果だったようだ。簡単なメールの文章を作成するだけのことが入力を間違えたりして、焦りばかりが募っていた。


「どうしてもそれが気になる?」


 送信ボタンを押した瞬間、ついに彼は私を見つけた。驚いた私は誤ってスマートフォンを取り落とし、しんとした部屋に結構な音が響いた。こそこそやっていただけに、ひどく決まりが悪い。


 振り向いてみれば、いつものわかりにくい「普通の」表情の先生が私に歩み寄ってくるところだった。近寄られそうになっただけで、どうして私はいちいち、平常心を失いそうになるのか……。


 自覚したのは最近だとはいえ、片想いの期間が長すぎた。一晩やそこらで慣れるわけはないのかもしれない。鞄の中にスマートフォンを押し込もうかと思ったけれど、見つかったのにそのまま仕舞い込むのもなんだか滑稽な足掻きみたいで。仕方なく拾ったそれを持ったまま、背後の彼を振り返った。


 スマートフォンを握りしめた私の手ごと取り上げて、彼は大きな手のひらで覆うようにやんわりと握る。彼がどう出るのか、何ともいえない心境でじっと見守っていた。


「帰るんだろう? 送るよ」


 私の手をあっさりと解放しながら、唐突に放たれたそれに、返す言葉は出なかった。彼のその台詞は、私が望むべきものであるはずだった。それなのに、この気持ちはなんだ。私は何をショックをうけているんだろう。


 決して伝えられない私の意思が喉の奥で息を塞ごうとする。――帰りたくない、一緒にいたいと。その上あり得ないことまで望んでいた。引き留めてほしかった、なんて……。


 引き留められれば拒む選択肢しか持ち合わせていないくせに。冷静になって実行するんだ。今私がとるべき、最善の行動を。


「準備をしますから、少し時間をください」


 彼は表情を動かさずに、そんなことを言った私をじっと眺めた。送ってもらうつもりはないから、ここで時間を稼がなければいけない。


 今まで感じたことのないような強い未練で、ここを出ていきたくなかった。でも、……そうじゃなくて。私の願いは、私の気持ちを成就させることではないから。


 それからしばらく、しんとした室内で、それぞれが黙っていた。でも一緒にいるわけではない。先生は私を意識した様子は見せないまま普通に過ごしていて、私はと言えば鞄の整理に不必要なまでに時間をかけながら床に座り込んでいる。


 そうして先生が台所に向かったとき、丁度いいタイミングで、先程マナーモードにした手の中のスマートフォンが小さく震えた。


 内容に目を走らせ、私は安堵した。それから少しの寂しさも感じた気がしたけれど、気づかないふりをして無視する。返事が来るのにそんなに長くはならないとわかっていたけれど、思いのほか早かった。


 とにかくまずは顔を洗うことにした。毎回いちいち断りを入れるのもどうかと思って、ちょっとだけためらった後 勝手に洗面所をかりて、制服を着直し、手早く身支度をする。借りていた服はきれいにたたんでおいておいた。すべて済ませて台所へ行ってみると、先生はまだそこにいた。


「先生」


 冷蔵庫を開いたまま、ペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいたところだったその背中に、私は声をかけた。先生は振り向かない。振り向かない背中。この背中を、どれだけ見つめてきただろう。こみ上げてくる色々な感情を、飲み込みきれなくなってくる。


「私は……優等生ですか?」

「先生方は、みんなそう言うけどね」


 生徒の雑談を流す時の対応で返しながら、先生はもう一口水を飲んでいる。


「優秀な良い生徒でいるのが、私のこれまでのやり方です。ずっとそうやって頑張ってきました。でも、私も時にはわがままを言いたくなります」


 開け放った冷蔵庫のドアもそのままに、先生がやっと振り向いた。


「何が言いたいのかな」


 伺うように私を見ているその瞳を、じっと見返してみる。


「タカシに迎えに来てもらいます。彼に誤解されたくないので、そうさせてもらえませんか」


 割り切ってしまったからなのか、私に怯みは一切なかった。先生は一瞬、放心したように沈黙してから、そして我に返ったように口を開く。


「ああ……いいよ、それならそれで」

 

 手短な一言で済ませ、ペットボトルを冷蔵庫に戻して扉を閉める。再び向けられた長身の背中。そっと手を伸ばして、私はその背中に寄りかかった。一瞬、抱き着いてしまおうかと思ったけれど、さすがにそんなことはできなくて。


 寄り添った瞬間、先生がわずかに身じろぎした気配がした。でも何も言わず、振り向かず、彼は私の行動を受け入れてくれていた。先生には意味が分からないだろうけど、このくらい許してほしい。


 動揺とか、困惑とか、衝動とか。そういうのがない静かな心理状態で先生に触れるのは、初めてかもしれない。


 私は身長が低い方ではないのに、私の頭は先生の背中までしかない。彼は私より身長が高くて、私より力が強くて。教室で見せる顔なんてほんの一部で、ちゃんと私生活もあって。私生活での顔も持っている。


 男の人なんだ。もう、どうしてもただの先生だなんて思えない。そうやって彼を意識したとき感じる、心の奥が震えて、指先まで込み上げるようなこの感情。好きだということ。どうしようもなくなって、ただ愛しいという想いだけを実感する。


「迷惑をかけてすいませんでした。また、学校で。……“先生”」


 最後の先生、という単語を強調した私の声は、やけに冷たい響きを帯びていた。気づかれないように先生の服をぎゅっと握りしめる。そっと体を離してみても、先生は何も答えなかった。


 先生と過ごした夜はとても長く感じたのに、終わりはあまりにもあっけなくて。それ以上何も言えないまま、私は鞄を取り、先生の部屋を後にした。




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