第十二章 “Secret Night ,A Kind Of 「Slight Fever」”〔5〕
ふと目をあけると、深夜の静寂がそこにあった。
一瞬 訳が分からなくて、私はぼんやりと記憶をたどってみる。
何か食べるか問われても食欲なんてなかったし、喋る気力もないくらいに体調は悪化していて。何も言わずに大人しくベッドに横になっていると、先生もまた何も言わずそこにいた。
黙るのは得意技とばかりにひたすら無言の先生。
別にその表情が変わったわけではなかったから、私の錯覚かもしれないけれど、優しく見守られているような安心感だけがそこにあった。
慣れとは怖いもので、はじめは先生がいるという緊張感から眠気なんて感じなかったのに、静けさと同時に少しずつ襲ってきた睡魔に負けて、私は知らずと眠っていた、らしい。
そこで回想を終えて、私はベッドに丸まったまま耳を澄ませてみた。静かな雨の気配。
そういえば夕方うたたねして目覚めた時には雨音はしなかったけれど、いったん止んでまた降り出したのだろうか?
雨と時計の秒針の音とが、部屋の静寂を若干和らげている。
けれども暗さのせいなのか、とても静かな空間にいるような気持ちだった。
気だるさの中やっと、一番重要なことに気づいた。
そういえば、先生はどうしただろう。
だるい体を起こして視線を動かすとすぐに、私の目は彼の姿を捕まえた。
眠る前と同じようにベッド際の椅子に座って、足と腕を組んで、ややうつむき加減に。
見ているこっちが 辛いだろうと心配になるような、座った姿勢そのままで、先生は眠っているようだった。
正確な時間は分からないけれど、長いこと眠っていた気がする。
まさかずっとここにいたのだろうか。
先生をじっと観察してみるけれど、その瞳はしっかりと閉じられていて開く気配はない。
彼が眠っているのをいいことに、私はまじまじと観察した。
熟睡するという人として普通の行為のはずだけれど、珍しいものを見ている気分だ。
じっと見つめていると、切なくなってくる。
胸が焦がれる。愛しくなる。触れたくなる。
しばらくそのまま、飽きもせず先生を見つめる。
確かに私がここにいてくださいと言ったのだけれど、なにも寝ている時までそばについていてくれなくてもよかったのに。
椅子に座ったまま寝させてしまったことに罪悪感を感じながら、せめてソファで寝てもらうため先生を起こそうと手を伸ばす。
けれども私は、途中でそれをやめた。
いつも隙のない先生の、隙だらけの寝顔を前にして、私はまた余計なことを思い付いてしまっていた。
今ならできる。今度こそ、だれにも――先生にも気取られないままに、キスを。
拒みたくなんてなかった。本当は受け入れたかった。
何度も何度も、もどかしいままに果たされない、先生との――。
これで最後だ。そして私だけの秘密にするから。
どうしても叶えさせてほしい。狂おしいほどの私の願いを。
そっと身を動かして彼に近寄ってみると、わずかに布団のこすれる音がした。
それでもその眠りを妨げることはなかったようで、先生は微動だにしない。
ベッドサイドに足を垂らして、意を決した私は身を乗り出しはじめる。
以前旧校舎で、こっそりキスをしようとして失敗した記憶が蘇る。
けれど今は、あの時の寝たふりとは違う。ちゃんと眠っている。
だからきっと、今ならばばれることはない。
おかしなことかもしれないけれど、その時私の懸念は、先生に風邪をうつすかもしれない、ということのみだった。しかもその懸念すらも無視しようとしている。
だって先生は言ったのだ、私にうつされるのなら悪くない、と。
そんな思わせぶりなことを言われて、冷静でいられるものか。
……本当はわかっているのだ。その思考は本題から著しくずれている。
先生にキスをする、その行為について懸念すべき重要な問題は、他に山ほどあるはずなのに――
熱で思考がぼやけているのか。
否、それはただの言い訳にすぎない。私はいつもこうだ。
大人しく冷静なように見えて、実はとても衝動的。
そしてその衝動に対して、ためらいを感じない。
先生を好きになったことで、そんな自分に初めて気づいた。
私を優等生だと言うのはあくまでも他人であって、本当はそうではない。
勝手に評されているだけなのだ。だから私は罪悪感を感じなくてもいいはず。
今は誰も見ていないから。優等生でなくても、寧ろ生徒でなくても許されるはずだ。……今だけは。
眠る愛しい人、近づく距離、重なる記憶。
あの時よりもずっと、私はこの人を好きになっている。
高ぶる思いに支配されるままに、私はぎこちなく顔を近づけていく。
けれども結局そういう運命なのか、こそこそしたバチが当たったのか。
身体を支えようと何気なくサイドテーブルに手をついた瞬間、何かが手首に当たった。
よぎる嫌な予感、はっと気付いたと同時に、ガラスの割れる大きく不快な音が鳴り響いた。
反射的に音のした方を見遣ると、床にガラスの破片と水が落ちている。
テーブルにあった水入りのグラスを落としてしまったのだ。
またやってしまった。先生の私物を壊すなんて……。
先生に迷惑をかけないようにと、あれほど気を付けてきたのに。
もはやキスどころではなくなってしまった私は、慌てながらショックを受けていた。
とにかく、拾わなければ。先生を起こさないように静かに。
そう思ってベッドから降りて床にかがみ、私が手を伸ばしかけたその時だった。
「気にしなくていいよ」
床ばかり見つめている頭の上から、ふと声が降ってきて、私は飛び上がらんばかりにびくついた。
静かに静かに、と こそこそやっていたから余計に驚いてしまったのだ。
見上げると先生はすでに起きていた。
「すいません、弁償を」
「いいよ、そんなもの」
消え入りそうな早口の私の声を、先生がさらりと受け流す。
そんな場合でもないのに、寝起き特有の、やや かすれ気味の先生の声に心音が若干上がる。
寝起きと言う点を除いては、先生の様子に変わった様子は見られない。
……気づかれて、いないのだろうか。
ふとそんな思考が浮かんだけれど、今はそれどころではない。
あわてて拾おうとすると、手を掴んで制止された。
またも長期停止しまして申し訳ありません。
完結させたいです、今度こそ頑張ります。
多忙でゆっくりですががんばっていきます。
ブランクのためいまいちうまく書けませんでしたが、苦情などはご遠慮いただけると幸いです。
停止中に根強くお応援してくださった方々、本当にありがとうございました。