第二章 “Inmost Passions,”〔2〕
突然の月原先生の登場に、少しだけ教室がざわめいた。想定外のことに驚いたのは私だけではなかったらしい。ーー私ほど驚いている人もいないだろうけれど。ざわめきの中、彼は相変わらずの冷静な様子で再度口を開いた。
「ほら、英語の教科書出して。始めるから」
「なんで月原センセー?」
いつも教室の中心で騒ぎ立てている沢木という男子生徒が、無謀にも無邪気な声で言った。先生は生徒の野次や雑談を嫌うというのに。先生は表情を変えず教卓の上に教科書類を並べながら、沢木君に視線だけやった。
「ただの時間割変更。別に珍しくもないだろう? ……じゃあ沢木、32ページ読んで」
先生に名指しされ、沢木君はえー、と項垂れつつしぶしぶ従っている。沢木君の聞くに耐えない発音の英語を聞きながら、私は少し驚いていた。
興味が無いのだと、思っていたのだ。彼にとって生徒はあくまでも生徒にすぎないのだと。だから生徒の名前なんていちいち知らないんだと思っていた。だって先生は問題を当てる時も、番号で当ててばかりだったから。
けれど先生は沢木君の名前を知っていた。先生は、生徒の名前を一応は把握しているのかもしれない。否、それとも彼が目立つからだろうか。
……どちらにしろ、私が特別なわけではなかった。そんなことはわかっていた。けれど、心のどこかで浮かれていたのだ。
先生が私の名前を知っていたこと。それが只、優等生としての認識だったとしても。私が先生に名前を覚えてもらっている数少ない生徒の一人だと、そう思うと本当に嬉しかった。――それなのに。
私は先生をじっと見つめてみた。けれど一瞬だって先生の視線が私に向く気配はない。淡々と、教科書の英文についての説明を読み上げるのもまるでいつも通り。
何も変わらない。彼の心はここにない。50分間、限られた時間の中、私は遠くに居る手の届かない彼を見つめているだけ。
――ならば、あの時間は何だったというのか。あの時、彼は確かに私をその瞳に映して、微笑んですらくれた。けれど今、先生をとても遠くに感じて、あの出来事がすべて一瞬の夢であったかのように思えてしまう。
何もなかったことになってしまうのだろうか。そんな恐怖が胸に込み上げ、私はそれを必死で打ち消した。そんなはずはない、だって約束だってした。
……でも、彼は覚えているだろうか。私にとってはひたすら大きかったあの出来事も、先生にとっては取るに足らない小さなアクシデントだったのかもしれない。
もしかしたらあんな約束なんてすっかり忘れてしまっていて、なかったことにされているのかもしれない。それだけは、どうしても嫌だった。
「……ああ、そろそろ時間だな。じゃあ、今日はここまで」
ふと背後の壁掛け時計を振り返った先生がそう言うと同時に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
先生は教材をさっさと片づけて教室を出ていく。
追いかけなくては。咄嗟に私はそう思い、慌てて席を立って教室を出た。廊下ですぐに目に入ったのは、職員室に帰ろうとしている先生の背中。
「先生っ!」
頭で考えるより先に、私は声を出していた。私の声に立ち止まった先生がゆっくりと振り返る。熱のない先生の瞳と目が合うと同時に、信じられないほどの鼓動が私を襲う。その瞬間、私はすでに動揺していた。
「……何?」
先生の口から出てきたのは、面倒だとでも言いたげな、突き放すような声だった。
私は言葉を失った。別に用事があって呼び止めたんじゃない。ただ、確かめたかっただけなのだ。あの日の、先生と私だけの時間を。あの約束を。
少しためらった後、私は思い切って口を開いた。
「先生、あの……、今日の約束、覚えてますか?」
「……今日? ……ああ……」
先生のその言葉が、突き刺さるようだった。どうでもいいような、投げやりな言い方。やはり先生にとって今日の約束は、面倒なこと以外の何でもなかったのだろう。何だか打ちのめされた気分で、私は俯いた。
「……神島」
「は、はい!」
先生が唐突に私の名前を呼んだので、嬉しくなった私は大げさに返事をする。けれど顔を上げて見た先生の瞳は、相変わらず冷たくて、その口から出てきた言葉も、やはり熱の全く籠らないものだった。
「学校に化粧をしてくるな」
「……はい」
私は小さな声でやっとそれだけ答えた。先生はそれ以上何も言わず、そのまま踵を返して職員室に向かって行く。
その後ろ姿を見送りながら、呆然と立ち尽くす私。横を通る生徒たちの笑い声で、ようやく我に帰った。慌ててトイレに駆け込んだ私は、鏡を見て、そして思わず鏡に映る自分から目をそらした。
注意されたって仕方ない。アイシャドウとマスカラが派手にキラキラして。こんなの、とてもナチュラルメイクとは言えない。
恥ずかしい――。馬鹿みたいに舞い上がっていると思われたのかもしれない。穴があるなら入りたいとはまさにこんな心境だろうと思った。先生のために大人ぶって精一杯の化粧をしてきたのに、その先生にセンセイとして注意されるなんて。
私は急いで水道の蛇口をひねり、勢いよく出てきた水で思い切り顔を洗った。マスカラが取れなくて、それでも必死にこすった。まつげが何本か抜けた。やっと洗い終わってポケットのハンカチで顔を拭き鏡を見ると、そこには、化粧の中途半端に落ちた、惨めな表情をした私が居た。
無性に、泣きたくなった。私が悪いって、わかっている。だけど先生は私の気持ちなんてきっと見通している。そして今日は約束の日だ。先生のための化粧だということは明らかだ。そんなこと、先生だってわかっていたはずなのに。
先生は優しくない。全然優しくない。
何に対しても投げやりで、瞳に冷たい色を浮かべて。綺麗な綺麗な、でも人形みたいな無表情、やっぱり氷みたいなあの人。
なのに、どうして。どうしてまだ、こんなに胸が苦しくなるほど、振り向いて欲しいなんて、そんなこと思っているんだろう。
私はハンカチを握りしめ、惨めな気持ちのままトイレを出た。教室に戻り、席に座ると、少し驚いたような顔をしたユキが私の所まで来た。
「何、麻耶。先生に用事でもあったの? それに、その顔……」
「うん、ちょっと。そしたら、化粧を注意されてさ」
「ああ……、運が悪かったね。近くで顔見られたしね」
ユキはさも気の毒だと言うように苦笑いしてみせた。よく見ると、いつもはばさばさと音がしそうなほどマスカラを塗っているはずなのに、ユキもなんだか今日は薄化粧だった。苦笑いもそのままに、ユキは続ける。
「最近理事長が風紀風紀ってうるさいし、月原先生も抑圧受けてんだろーねー。月原先生そんなのうるさく言うタイプじゃなかったのにさぁ。あたしもいろんな先生に注意されまくってるし。やだよね、大人の世界って」
ユキは、気にすんな、と言いながら私に笑顔を向けている。けれど、違うのだ。先生は例え上から抑圧を受けたとしても、それを見られていないところでまで順守するほど職務に忠実じゃない。そう言った面倒なことは避けるタイプだ。それなのに、彼が注意をしたということは、私への牽制ということなのだろう。
あくまでも、今日の約束は交換条件にすぎないのだと。生徒以上の期待を持つなと。彼はそう言いたいのだ。胸が、きりきりと痛む。
「まぁ、さ。下手な化粧してるよりよかったかも! 無駄に派手で、とても見れたもんじゃなかったよね。あはは」
自分を叱咤するように、私はできる限りの明るい声で笑って見せた。けれどさすがに付き合いの長いユキだ。私のカラ元気などすぐに見抜かれてしまったようで、ユキは一緒に笑いはしなかった。
「……麻耶? なんかよくわかんないけど、今日は、特別な日なんでしょ?」
気遣うようなユキの声に、私は何も言えず俯いた。特別だと、そう思っているのは私だけだ。先生にとっては、そんな私の気持ちすら迷惑かもしれないのに。
「ほらぁ、そんなに落ち込まない!」
少し大きな声で言って、ユキは俯く私の背中をぱん、と軽く叩いた。反射的に顔をあげると、笑顔のユキがそこに居た。
「大丈夫だよ。さっきの化粧はちょーっと、麻耶らしくなかったかもしんないけどさ。あたしがさっきよりもっと可愛くしたげるから」
「ユキ……」
「麻耶はね、もっと薄化粧が似合うよ。あたしに任せてよ」
ユキはそう言って、もう一度にっこりとほほ笑んだ。