第十一章 “Secret Night ,A Kind Of 「Accomplice」”〔7〕
どんな形であろうとも、彼に命じられては従うほかはない。たとえ彼がセンセイじゃなくなったとしてもだ。
たどたどしく目線を動かして、彼の目を見た。どうしてだろう。その瞳を見るほどに、切なくなる。その意味を探る暇は与えられず、引き寄せられた私は彼の腕の中にすっぽりと包まれる。
「神島……」
熱を伴った声で、彼が私の名をもう一度呼んだのが頭の上から聞こえた。
吐き出せない想いを抱えたまま、私の感情は行き場を失くす。彼はストイックで冷たくて、必要でなければ生徒の名など呼ばない。
月原先生。彼にあんな目で見つめられて、誰が心を奪われないでいられるというんだろう。
優しい腕の中は、ひどく幸せだった。
――“わからない? 本当はただ、わからないふりをしているんじゃないのか”
私は自意識過剰だ。だけどそんなに鈍感でもない。だから彼の言うことは、核心をついていたように思えたのだ。生徒の前での彼の在り方は冷たく、決してこんなに優しいはずじゃない。
ただ、彼の行動から推測される彼の心の中は、センセイである彼の存在意義とはかけ離れていて、あまりにありえない話だったのだ。
――“月原先生って、誰かを好きになったりするのかな”
いつかの私のその問いかけを、受け取ったのはユキだった。彼を好きだと自覚し、そしてユキも私の気持ちを見ぬいたばかりのあの頃。スマートフォンで彼氏へのメールを書きながら、けれども手を止めたユキは、少し考えてから言葉を返してきた。
「さぁ……想像できないよね」
彼女の答えは、私が感じていたのとまったく同じだった。どの生徒に対しても平等に冷たく、平等にセンセイをして。彼の感情を探る手がかりひとつすら、生徒には与えられない。
教室を出て職員室に戻っていく背中を思い起こしながら、私は当時手の届かなかった彼ではなく、彼とは関係のないユキに訴えるしかなかった。
「知りたくなるの。ストイックで冷たいあの人が誰かを好きになった時、どんなふうに愛するんだろうって。好きな相手にも、同じように冷たいかもしれない。でも、もしかしたら……」
――もしかしたら、例えようもなく優しいかもしれない。胸が締め付けられる。きゅうとした切ない感情は、私の指先まで伝わった。
「月原先生……」
感極まったように、私の声が彼の名を紡ぎだす。“先生”は彼の代名詞。私はいつもそうやって彼を呼ぶ。だからその代名詞に彼の名を乗せて彼を呼ぶのは、初めてだった。
名前を呼ばれ、彼はわずかに反応を示した。そっと肩を押され、望まない解放を与えられる。そのまま浴室に入っていった先生を、引き留める口実はなかった。
とぼとぼとした足取りで、私は元の部屋に戻る。ソファにけだるい体を投げ出して、目を閉じた。そのまま夢と現実を行き来してから、ふと覚醒する。
先生はまだ戻ってきてはいないようだった。うとうとしたのはほんの短い時間だったらしい。もう何度も見たのに、私は再び彼の部屋を視界いっぱいにとらえてみる。
目立つ家具は、二つのテーブルとこのソファだけ。隅の方に置いてあるテレビは、あまり使われていないようだった。ガラステーブルの上に投げやりに放置された、たばこの箱とライター。何の変哲もなくあっさりとした部屋の情景は、彼の私生活だ。
彼の仕草、彼の行動。
彼の生活、彼の仕事。
彼の瞳に映るもの。
彼の瞳の前に広がる世界。
彼に関わるすべてのもの。
彼が関わるすべてのもの。
全部知りたいのに。私は私で、彼じゃないのがもどかしい。
私は、彼になりたいと思った。
けだるい体を何とか動かし、ソファから立ち上がる。ガラステーブルに手を伸ばし、そっと手に取ったたばこ。私の中で、たばこは先生だ。彼のイメージそのもの。
すぐに思い出せる、苦い香り。それは私を、あの日の記憶の中に連れて行く。陰に隠れて。そっと覗いた視線の先に、彼は居た。
壁にもたれかかった長身。気だるげに煙を吐き出す彼の姿。奇跡みたいだと思ったのだ。かけがえのない奇跡だと。あの瞬間の、一斉に彼に向かう、溢れ出すような私の感情を。あの情景を、そのまま思い起こすのはたやすい。
彼がしていた、そのままに。箱を振り、頭を出した一本を取りだしてみた。たばこをくわえた私の指先が、ライターをかちりと鳴らす。
熱を孕んだ身体とかすれた思考が、私を突き動かしている。未成年だとか、先生の家だとか、いけないことだとか。私は優等生のはずだったのに、そんなことはすっぽりと頭の中から抜け落ちていた。
だけどどうしてか、たばこの先に何度火を当てようとも一向に着火しない。一瞬火がともっても、一瞬だけですぐに消えてしまうのだ。早く終わらせないと、彼が戻ってきてしまうのに。もうここまでやってしまっては、後戻りもできない。焦る私は気でも狂ったように、ライターを何度も鳴らし火を作る。
それでもやっぱり着火しないので、ついに私は口からたばこを離し、ライターとたばこを近づけて着火しようと試みた。
ライターを鳴らすたび、少しづつ燃えては消えていくたばこ。その先から、煙だけは一人前に流れていく。煙だけがたまっていく。いわゆる副流煙と呼ばれるその煙を、必死な私は思いっきり直接吸い込んでしまった。
「うっ、げほっ!」
盛大にむせた私は、目じりに涙をためつつ何度も咳き込む。風邪で弱ったのどに、この刺激はきつい。たばこを吸うこともできないまま、その煙だけでむせるなんて間抜けもいいところだ。
やっぱりお子様な私が手を出すようなものじゃなかった。あきらめて急いで証拠隠滅にかかろうとした私に、背後から何者かが声をかけた。
「吸いながらでないと、火はつかないよ」
驚いた私は、大げさなほどにびくりとして小さくなる。いつか、たばこを見つかったときのタカシみたいだと思った。何者かと言っても、この部屋には彼しかいないのだ。そろそろと振り返ると、そこにいた先生は当然 私の行動をすべて理解していたようだった。
けれども彼の表情は何故か とがめるようなものではなくて、まるで共犯者のようにも見えた。