第十一章 “Secret Night ,A Kind Of 「Accomplice」”〔6〕
もしかしたら、これが“見つめられる”ということなのだろうか?
私が先生に見つめられる。先生が私を見つめる。
――その文章の主語も述語も動詞も、違和感だらけだと思った。
「君はあまり笑わないね」
彼の台詞は、見当はずれもいいところだった。
こんな場面で笑えるような人がいたら、お目にかかりたいくらいだ。
机の下に隠れた手で制服の裾を握りしめながら、私は考えてみる。
大人しくても、友達といるときはそれなりに笑っていると思う。
確かに先生に見られているときは、緊張して笑わなかったかもしれない。
でも大人しい生徒ってふつう、センセイ方の前ではあまり笑わないんじゃないだろうか?
「そんなことは、ないと思いますけど……どうしてですか?」
「昔から興味の湧くことはあまりなかったけどね。例外ができたんだ」
さっきから自意識過剰になってしまっている私だ。
彼の台詞を自分の都合のいいように深読みしているのかもしれない。
つまりは彼が、私に興味があると言っているようにしか聞こえなかったのだ。
直接的でない彼の言い回しは、聞き手によってどうとでも取れる。
「わからない? 君は優秀だ。優秀すぎることの弊害もよくわかっている……」
黙っている私に、彼はさらりとした言い方で唐突に私のずるさを指摘した。
優等生としての私の、ずるさ。
教えることを生業としたセンセイ達は教えたいのだ。
だからあまりに完璧な生徒は嫌われる。私はそれを知っていた。
多少質問して、多少手のかかる生徒のほうが好感度が高いことも。
だからわかっているのにわざと質問して、鼻につかない優等生を演じる。
他のセンセイ達には決して見抜かれなかったのに、よりによって先生には見事に見抜かれていた。
「本当はただ、わからないふりをしているんじゃないのか」
核心をついたようなことを言われて、言葉に詰まった。
返答に迷っていたのは私の方なのに、そこで話を逸らしたのは先生だった。
また着替えを与えられ、風呂に入るように促される。
さっきから生乾きの制服が臭わないかと気にしていた私だ。
とりあえず彼の厚意に甘え、浴室に入ることにした。
体調は思ったより悪くなっていて、湯船につかるのもどうかと思ったけれど、好きな人の前なのだ。少しでもきれいでいたかった私は、湯船につかるという選択肢を選んだ。
けれどもその選択は、私の体調をさらに悪化させる結果となった。
風呂を出て脱衣所の鏡を見ると、真っ赤な顔をした自分が映っていたのだ。
熱が出てきたのかもしれない。まずい展開だった。
こんな顔を先生に見られるわけにはいかないのだ。
鍵を忘れ、先生の家に泊まった上に熱を出すなんて、まさに最悪のシナリオとしか言いようがない。
焦りつつしばらく脱衣所に佇むと、少しだけ頬の赤みは引いた。
それに安心した私は、ドライヤーもそこそこに脱衣所を出る。
まだ寒いと言うような季節じゃないのに、脱衣所の外の空気は思いのほか冷たく感じた。
頭がくらくらする中、必死で自分を保つ。
気を張っていなければいけない。絶対に悟られてはいけない。
精一杯だった私は、脱衣所の扉の前の通路に、丁度通る途中だったらしい彼が居たことに遅れて気づいた。
生乾きの髪の細い一束が、頬に張り付いてくる。
彼はそんな私を見ながら、いつもの無表情で通路に立ち止まっていた。
「先生」
目的もなくその名を呼んだ瞬間、強くくらりとした。
彼の前で彼にだけ集中し、油断してしまった私の膝が折れる。
彼は驚いただろうか、と。
そんな場合でもないのに、ぼんやりと考えた。
けだるい自分の体は倒れるままに床に打ちつけられるかと思ったけれど、強い腕に捕まえられて無事だった。
抱きとめられたことで、冷たく感じる空気から逃れた私。
心地よくとも、髪が含んだ水分が先生の服を濡らさないかが気がかりだった。
ふわりと、清潔な香りが鼻をくすぐる。
さっき使った、いつもとは違うシャンプーのにおいだ。
どうやら自分の髪からの香りだったらしい。
先生と同じ香り。どうしようもなくなった私は、思わず彼に縋り付いた。
遠いようでやっぱり近い彼の声が、私の名を呼んだのを耳の外で聞いた。
次第に熱が上がっているのかもしれない。
目の前の現実はどこか現実味がなくて。
私の中の先生という存在の大きさを、さらに膨らませていく。
このまま深く深く、想いに支配されたい。
頭の中で、悪い自分がささやきかけてくるのだ。
そしてそれは次第に強い意思として、私をけしかける。
いいじゃない、もうこのまま。
だって誰も見ていないんだから。
誰もいないんだから。
ふたりだけなんだから。
こんなに――近いんだから。
しがみつくように抱きつく私に、先生はされるがままだった。
彼が抵抗を示さないのをいいことに、私は離れないとばかり必死に回した腕に力を込める。
そのままの状態が、しばらく続いて。
永遠かと思った私の抱擁は、けれども彼によって中断させられた。
急に引きはがされて我に返り、私は彼を見上げる。
と、強い視線が私に向いていた。
両腕をつかむ彼の手は、しっかりと私を固定している。
「誰と間違えている? 君が想う相手じゃない。俺は……」
らしくもなく切羽詰まったように、彼は語尾を切った。
いつかみたいに乱暴じゃなくて、そっと押されて、壁に押し当てられた背中。
寧ろさっきみたいに、強引にしてくれたっていい。
こんなに優しく扱われると、戸惑ってしまうのだ。
「神島、俺を見て」
たまらなくなって目をそらした私を、彼がたしなめる。
どこか切なくどこか優しいその声音は、センセイとして生徒に指示するというよりも、彼の願いのように聞こえた。