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第十一章 “Secret Night ,A Kind Of 「Accomplice」”〔5〕




 あきらめの悪い私が教科書を見つめたまま固まる中、先生はその指先で教科書のページをめくった。


 正解できなかった問題は、ついに私の視界から姿を消す。

 問題を解いて、授業の続きを再開する道は絶たれてしまった。

 けれども項垂れる私に構うこともないまま彼が二、三ページめくると、次の章の問題が顔を出した。


 教室で授業中、チョークの先で黒板の文章を指す時と同じ動作で。

 顔を出した問題をトントンと指先で指し、彼はまるで当然のことにように「君の課題だ」と言った。


「できる?」と、彼は試すような言い方で私に問う。


 先生が近すぎるこの状況でなければ、家でやるなら問題ない。

 さっきは失態をさらしたけれど、私は一応優等生なのだ。


 あえて彼の目を見ずに、私は「はい」と、小さく答える。

 張りつめたまま、まだ私は自分を取り戻してはいない。

 教室で当てられ、声が上ずることばかりを気にして返事をする時のようだったと後悔した。


「またミスしても安心していいよ。君は俺の生徒だからね。指導は惜しまない……」


 近くから与えられる彼の台詞は、いちいち私の動揺を誘ってくる。


 先生は言葉ひとつで、私を簡単に翻弄する。

 親密な距離感の中“俺の”生徒だなんて言われると、そこに深い意味はなくてもどうにも落ち着かない。


 懸命に気を取り直した私は、ペンケースを探り蛍光ペンを掴んだ。

 たどたどしく外したキャップは私の手から滑り落ち、机の上を転がってから床に逃げる。


 落ちたキャップを拾って、なんとか彼に与えられた課題にしるしをつけることに成功した私の指先を、彼は相変わらず目で追いかけていた。


 彼の視線に耐えかねて、私の指先はまた、情けなく震える。

 今まで、動作のひとつひとつをここまで見られたことなんてないのだ。

 まして相手は先生。自分の動作をこれほど意識するのも初めてだった。


 そんな状態でキャップをつけようとした私はまた失敗し、インクを含んだ蛍光ペンの先は、私の右手の掌から手首までを強くかすった。


 黄色いインクが、私の手に斜めにラインを引いている。

 間抜けな失敗を繰り返す私の手から、彼はペンとキャップを取り上げた。


 私には難しかったというのに、先生は難なく蛍光ペンに蓋をする。

 幼児でも簡単にできそうなこともできなくて、先生にやってもらう。

 彼の甘やかすような行動に、妙な恥ずかしさが込み上げた。 


 けれども次の瞬間、私は些細な恥ずかしさなんて忘れ去ることになる。

 ペンを机に落とした先生の手が、インクの付いた私の右の手首をつかんだのだ。


「っ、先生?」


 切羽詰まったように彼を呼んでも、彼は何も言わなかった。

 この距離では確かに、私の声はその耳に届いているはずなのに。


 彼の急な行動に、またも心音が跳ね上がっていく。

 彼は親指の腹で、私の手首についた黄色いインクをゆっくりとなぞる。

 手首に押し付けられた愛しい指先が、薄い皮膚の上に纏わりつくようにしてすべっていく。


 その温度は、忘れかけていた甘い痺れを、私の背筋に送りつけてきた。

 早まる自らの鼓動の音と、彼の指先にあっという間に翻弄される。

 何度も何度も、彼は私の手首のインクを拭うように、繰り返しなぞった。

 私の手首でインクが薄まっていくと同時に、彼の指先は色を絡め取っていく。


「あの……」


 それだけしか言えない私の小さな声を、何も言わない彼は聞こえなかったように流してしまった。


 先生は私の手首についたインクを拭い取っているだけだ。

 なのにその指先に触れられるたびに、私の頭が熱を伴っていく。

 鼓動を持て余しながら、おそるおそる、私は彼の様子を伺った。


 と、私の手首を見ていた先生がすぐに気づき、視線が絡み合う。

 何を思っているのか全く読めない、深い色を宿した瞳。

 逃げ出せない波が見える中、無力な私は溺れてしまいそうだ。


 太くも細くもない一般的な私の手首を掴んだところで、先生の大きな手は余っている。


 抵抗しても、きっと離してはくれないのだろう。

 教室では淡泊に見えた彼は、意外にも意地悪く強引なのだ。

 彼の強い力。先生は男の人で、私は力では決してかなわない。

 さっきから何度もそれを実感させられているのに、私が感じるのは恐怖ではなかった。


 従順な自分、それが落ち着かない。

 教室とは違う知らない彼を前にして、知らない自分がずっと何かを訴えている。


 やがて私の手首からインクの色が消えても、先生は私の手を開放しなかった。

 彼が少し握る力を強めると、その指先が私の手首の鼓動を探り当てる。

 押し付けられた脈が早いリズムで強く波打つのが、自分でもわかった。

 ――どうかもうやめて。全部ばれてしまうのに。


「また脈が上がっているね。そんなに緊張しなくてもいいよ」


 最も指摘されたくなかったことを言い当てられて、かっと頬が上気する。


 ここまで翻弄しておいて緊張するななんて、無理な相談だ。

 私よりもずっと大人で余裕な彼は、間違いなく確信犯なのだ。


 上気する私の頬は、きっと赤みを帯びている。

 今は見られたくないというのに、先生は私をじっと見る。

 彼の瞳に追われ、逃げるだけの私の視線。

 こう見られるとどうしていいかわからなかった。

 



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