第十一章 “Secret Night ,A Kind Of 「Accomplice」”〔3〕
「明日の朝は、早く出ていきます。誰にも見られないように……」
泊まると決意したことを暗に告げる私の返答に、彼は納得したようだった。
そのまま解放されると思っていた私だけれど、彼は私を抱きしめたまま一向に動かない。
「あの、先生? 離してください。もうどこにも行きませんから」
戸惑いながら、背中の先生にやんわりとお願いしてみる。
すると背中から返ってきたのはとんでもない台詞だった。
「離さないと言ったら、どうする?」
驚いた私は目を丸くし、再び硬直するしかなかった。
ここにいると約束すれば、てっきり解放してくれると思ったのに。
そんな口ぶりだったのに。まるで詐欺だ。
カチ、カチと、規則的に時を刻む、時計の秒針の音が耳につく。
時間が長く、長く感じる。もしかして永遠にこのままなのだろうか。
人間の一生のうちの心拍数は決まっているらしい。
もしずっとこの状態なら、私はすぐに もたなくなるだろう。
彼を背中全体に感じ、精神状態は張りつめたまま。
ついに思い切った私は、力を振り絞って彼の拘束を突破しようと試みる。
けれども拍子抜けするくらい簡単に、彼の拘束は解けた。
振り返ると、少し面白そうに口の端を上げた先生が。
私と違って余裕な彼だ、混乱する私を面白がってでもいたのだろうか。
その余裕がなんだかくやしくて、むっとした私は再び彼に背を向ける。
すると満足したらしい先生が、ようやく私から離れていく気配がした。
やっと解放されて、ほっとすると同時にどっと疲れがきた。
相変わらずだるい体。喉も痛むし、体調は悪くなる一方だ。
なんとか朝まで持ちこたえて、明日は家でゆっくりしよう。
ちょうど明日は祝日だったし、補習もなかった。
なんて、先のことをのんきに考えてみる私だけれど、状況はそんなにのんきなものではない。
先生は奥の部屋に消えていったようだ。スーツを着替えるのだろうか。
一人残されて、彼が戻ってくる時 どこでどう佇んでいようかと思案しては焦ってしまう。
先生の部屋に泊まるなんて。
まさかこんなことになるとは、夢にも思わない展開だ。
今日の出来事すべてが、そもそも私に対処できる事態ではなかった。
だけど恋人として泊まるわけじゃないし、私は生徒なんだ。
今私が気にするべきことは、先生の立場とか。
明日の朝、誰にも見つからないように部屋を出る方法とか。
そんな一番重要と思われる問題で、それ以外のことなんてどうでもいい。
肝心なのは先生に迷惑をかけず、離れることのみだ、そのはずだ。それなのに。
これから、この見慣れない彼の部屋で、一晩先生と……。
そんなことばかり考えては、自分の心臓に振り回されている。
何を考えているのかと、私ごとき子供の生徒が泊まったところで何もあるわけないと、自分に必死に言い聞かせてみるのだけれど。
まだ新しく鮮明な、衝撃的な記憶たちが邪魔するのだ。
どうしよう。最早お粗末な私の頭の中にあるのは、その一言だけ。
第一、睡眠という最大の難関がある。
徹夜するわけにもいかないし、寝なければいけない。
……そうだ、ソファで寝させてもらえばいい。そうしよう。
そうすればもう、あんなことにはならないだろう。
あんなこと――握りしめたシーツの感触を思い出し、私はひとりで馬鹿のように心を乱す。
そんな風にして 自分の佇まいを決定できないまま、着替えた彼がついに戻ってきた。
さっきシャワーを浴びた後に着ていたのとはまた違った、ラフな格好。
多分さっきのも今のも部屋着だろう。やっぱりどんな服を着ていても、長身の彼は格好良い。
先生は、さっきとまったく同じように 同じ場所で突っ立っている間抜けな私を見て、座っていいよ、と声をかけてきた。
そして自らはソファに座って、さっきと同じように読書を始める。
同じソファに座るのも気が引けて、私は仕方なくガラステーブルの椅子に遠慮がちに座った。
テレビくらいついていればそれを見るのだけれど。
テレビどころか無音なこの部屋でどうしろというのか。
体調が悪くてそれどころでもないけれど、とにかくすることがほしい。
座ったまま何もできず、気まずい思いをする私を救ったのは、意外にも私自身ではなく 無関心に見えた彼だった。
「そういえば君は、今日の授業に出ていないから、遅れてしまったね」
思いついたように言って、彼は読み始めたばかりの本を閉じてしまった。
そうだ、先生が学校に戻ったのは、私のクラスの授業が残っていたから。
私が先生の部屋にいた間、彼は学校でいつものように、熱のない瞳で教室を見渡しながら授業をしたのだろうか。
クラスメイト達が先生に壁を作られ立ち入れない中、私はここにいた。
その優越感にも似た感情が、心を熱くする。
「個人授業はしない主義なんだけどね。特別だ、教えてやるよ」
特別。彼の口から出たそんな単語にきっと深い意味はない。
なのに自意識過剰になってしまっている私は、どきりとしてしまった。
促されるままに教科書ノートとペンケースを鞄からとってきた私は、ソファの前のリビングテーブルにそれを広げ 先生の隣に座る。
先生の授業だから。先生に近づける気がするから。
そう動機付けて、私はいつも懸命に英語を勉強する。
それなのに彼の部屋で、彼の隣で、彼に教えられながら英語を勉強するなんて、変な感じだ。
教科書のページをめくると、彼の解説が始まった。
彼は説明しながら、黒板に書くはずの解説を 私の教科書に書き込む。
書き込むために、右隣の先生は自然と私に肩を寄せることになる。
肩と肩が触れ合うと、意識しまくる私はつい反応してしまう。
気にした様子もない彼は、気づいているのかいないのか。
黒板でしか見たことのない彼の字が、私の教科書に英語を綴っていく。
至近距離で解説する彼の声は、教室での冷たくて抑揚のない声とは違う。
少し低めな心地良いトーンのその声は、私だけに届く。私のためだけに。
先生の長い指。彼が握っているのはチョークじゃなく、私のペン。
こんな授業、私以外の生徒は受けたことがない。……めまいがしそうだ。
――“特別だ”
先生のさっきの台詞が、頭の中をぐるぐる回る。
すると次に、お決まりのようなユキの声が告げるのだ。
――“つまり、先生にとって特別なのは……”
私はまた、何を考えているの。集中しなければいけないのに。
解説されても、落ち着けるはずがない。集中なんてできるわけない。
こんな個人授業、――胸が騒ぐだけ。
「神島。聞いているのか?」
彼のその一言にびくりとして、私は我に返った。
衝撃で私の手から解放されたオレンジ色のペンが、ノートに落ちてころころと転がっていく。
ぶつかったままの肩と肩。危うい均衡の上に保たれた何か。
至近距離に感じる彼は、上の空だった私に怒っているわけではないらしい。
ペンはついにノートからテーブルに転げ落ちて、カツンと小さな音を立てた。