第二章 “Inmost Passions,”〔1〕
「一日、私に。――先生の時間を一日分、私に下さい」
言ってしまってすぐ、なんて馬鹿なことを言ってしまったのだろうと思った。我ながら、なんてあからさま。目の前にいる彼は、センセイといえど大人の男の人。きっとばれてしまっただろう。そして大人なこの人は気付かないふりするのにだってきっと慣れている。センセイにあこがれる生徒なんて、世の中には沢山いる。そしておそらくこの学校内にも いるはずなのだから。
先生は少し驚いた様子を見せたけれど、すぐにまた余裕を感じさせる笑みに戻った。
「……わかった。いいよ」
初めて見る、少し意地の悪そうな笑い方。それはこの人が私よりも大人だと感じさせたけれど。私の目に映る彼はその瞬間、センセイなんかじゃなかった。
ユキの言うとおり。恋とは、落ちるものだったのだ。
第二章 “Inmost Passions,”
私は、夢を見ていたんじゃない。けれど夢よりも信じがたいこの現実に、ただ茫然としているしかないのだ。
「……や。麻耶! まーや!」
名前を呼ばれていることに気がついて、私ははっと我に帰った。
「麻耶ってば、聞いてないでしょ? もう、堂々とシカトしないでよね」
見ると、むくれたユキが腰に手を当て、席に座っている私の前に立っていた。授業中だと思っていたのに、どうやら気がつかないうちに授業は終わっていたらしい。ということは、授業終わりの号令も座ったままだったかもしれないということだ。
そのことに気づき、私は心の中で少し落ち込んだ。どうでもいいことかもしれないが、一応優等生で通っている私にとっては致命的なミスだった。
「どうしちゃったのよ。最近変だったけど、今日は特におかしいよ?」
ユキはそう言いながら、休み時間で空いている隣の席から椅子を持ってきて、座った。
「別に何もないけど……」
私は少し苦笑いをしながら言葉を濁す。だって今日は金曜日なのだ。
あの日、現実だか夢だかわからなくなるくらいに彼の近くに行けたあの日。彼は「いつがいい?」と私に聞いた。私は「金曜日の夜」と簡潔に答えた。一日下さいとは言ってみたものの、夜でないと誰かに見つかってしまうかもしれないし、金曜日なら多少遅くなってもいいと思ってそう言った。
彼はわかった、とだけ答えて。まるで仕事の打ち合わせでもするように、時間と待ち合わせ場所を決めてからその話を終えて。そこで偶然が生んだ私と彼の逢瀬も、あっけなく終わりを告げた。
奇跡的にも彼の本当の姿を垣間見れて舞い上がっていた私は、一気に現実に戻されたような気持ちで、彼の去っていく後姿を前に立ちつくした。
あれは水曜日だったけれど、その後の彼の学校での様子と言ったら、何事もなかったかのようにいつも通りだった。
とはいってもこの数日彼の授業は入っていなかった。だから授業中云々という話ではなく、廊下ですれ違う程度だったけれど。まるで私など視界に入っていない様子で歩き去る彼は、以前と全く変わらず無機質だ。あくまで、ストイックを貫き通す彼はやはり手の届かない“センセイ”で。あの日の出来事も夢だと疑いたくもなる。
思わずため息を漏らした。私が回想に浸っているなんて知るはずもないユキは、まだ私の様子がおかしいことについて言いたい様子で、私の顔を覗き込んで大げさに首を横に振った。
「ううん、やっぱりおかしい。だってその化粧! めずらしくない? ってか、はじめて?」
ユキに痛いところを指摘されて、私は無性に恥ずかしくなった。
私は今日は慣れない化粧もしてきてみた。先生との約束がデートと呼べるわけはないことくらい、わかっていた。けれど化粧くらいしておかないと、大人なあの人の横には立てないと思ったのだ。
着替えもちゃんと持ってきた。家が遠い私は、待ち合わせが七時でも家まで帰っては間に合わない。制服で会って先生に迷惑をかけたりはしたくないのだ。……それに、綺麗な服で化粧をして、少しでも大人に見てもらいたいという下心も、なかったとは言い切れない。
そんな浅ましい自分を知られたくなくて、私は誤魔化すようにユキに作った笑みを向けた。
「た、たまには、化粧したくなる日もあるんだってば」
「……ふーん?」
ユキは口ではそう言って見せたものの、まだ何かあると踏んでいるのか、私の顔をじっと見てくる。
大方、私が白状すると思ってのことだろうけれど。あの日の先生との秘密の時間のことだけは、絶対に言えない。彼がセンセイだということももちろんだけれど、私と彼だけのあの貴重な時間のことを、例えユキにだって知らせたくなかった。あの時、あの瞬間の出来事だけは、私と彼二人だけのものだから。
やがて休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。パラパラと散っていくクラスメイト達を見て、ユキはまだ何か言いたそうだったけれどしぶしぶ席へ戻っていく。
次の授業は、日本史。定年間近のおじいさんとすら呼びたくなるような白髪の先生だ。私は教科書とノートを机に出し、今度は集中して授業を受けようと気を引き締める。けれど、時間ぴったりに入ってくるはずのその白髪の先生は全く入ってくる気配がない。
五分ほどすると教室がだんだんとざわめき始めた。席を立つ生徒もちらほらと見られる。すると、そのざわめきをかき消すようにガラリと教室の扉が大きな音をたてて勢いよくスライドした。
「授業始めるぞ。席につけ」
いつも通りの台詞と共に教室に現れた彼の姿に、私の心臓が大きな音を立てた。それはあまりにも突然の出来事で、心の準備ができていなかったのだ。
長身に、整った顔立ち、けれど人を一切拒絶するかのような冷たい瞳。――教室の扉から現れたのは、月原先生だった。