第十章 “Feel No Pain”〔7〕
しばらく時間がたっても、彼は私を離そうとはしなかった。先生の腕の中で、自然と涙が乾いていく。
のどの痛みは相変わらずだった。気だるい身体の具合はじわじわと悪くなっていく一方だったけれど、先生の腕の中では、そんなことすら忘れて気にならなかった。
どうして、先生はこんなに優しく私を抱きしめるんだろう。どうして、私の想いは届けることができなくなってしまったんだろう。どうして……こんなに暖かいのに、苦しさは消えないんだろう。
先生の背中に回した手で彼の服を握りしめた瞬間、隣の部屋から、再びスマートフォンが音を発するのがかすかに聞こえた。マナーモードの、バイブレーション。薄い暗がりの中、ためらいがちに顔を上げると、先生と目があった。
言葉は、ない。物言わぬ彼の瞳は、多くを語っている気がした。彼は自然に私を開放し、私はゆっくりとした動作で彼から離れる。
元の部屋に戻っても、バイブレーションはしつこく鳴りやまない。どうやら着信のようだ。誰だろう。少しの恐怖を思い出しながら、鞄の中を探って取り出す。と、表示されているのは母親の名前だった。ほっとしながら、私は通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『もしもし麻耶ちゃん? ごめんね、新人の子が急に休んで、私が夜勤することになったのよ。ほら、お母さん一応責任者だし……お父さんも今日は夜勤だから、晩御飯は自分でなんとかしておいて』
母親に一方的に告げられたのは、衝撃的な事実だった。最も思わしくない展開だった。カギは無いままなのだ。よりにもよってこんなときに、両親とも帰ってこないなんて。
私は様子を窺うように、私の後に続いてこちらにやってきていた先生にちらと視線を向けた。先生は、壁に背中を預けて腕を組むいつもの恰好で、私をじっと見守っている。
これまでの展開からして、私が一晩中家に入れないと知ったら、先生は私のためにどうにかしようとするだろう。それだけはどうしても避けたかった。これ以上迷惑をかけるくらいなら、家の前で一晩過ごす方がましだ。
この距離では、会話はどうやっても先生に聞かれてしまうのに、無駄とわかっていながら声をひそめて、私は受話器の向こう側に声をつなげる。
「お母さん、私、家のカギを忘れてきたの。いったん帰ってきてくれないと困るよ……」
『じゃあ、タカシ君の家にお世話になればいいじゃない? あそこの奥さんなら、嫌な顔しないわよ』
切羽詰まったこの状況を知る由もない母親に、見当外れのことを言われ、私は眉根を寄せる。
確かに、幼なじみのタカシとは、家ぐるみの付き合いをしてきた。小さい頃は、よく泊まりに行ったものだ。だけど最近はそんなこともなくなっていた。状況が変わってしまったのだ。一応、ふたりとももう高校生。さすがに年頃の男女が、お互いの家を泊まりに行ったり来たりするわけはない。
一瞬、ユキの家にお世話になることも考えたけど。彼女は見かけによらず家庭の事情が色々あって、簡単に泊まりになんていけない。だからこの状況を切り抜けるには、母親がカギを持って帰ってくることが必要必須条件なのだ。
今まで母親の仕事に関して、無理を言ったことはないけれど。今日だけは、どうしても帰ってきてもらわないと困るのだ。私は少し感情的になりながらも、何とか母親に食い下がった。
「私もタカシももう高校生なんだよ、タカシの家に泊まりになんて……。お願い、帰ってきてよ」
『他の友達の家でもいいじゃない。とにかく抜けられないの、忙しいから切るわね。なんとかしておいて』
母親がそう言い捨てると同時に、電話は一方的に切られた。電話が切れた後の規則的な電子音を聞きながら、気だるさがさらに増す体を持て余し、私はどうしたものかと立ち尽くす。すると先生が動き出した。
キッチンに入っていく先生。そうして戻ってきた彼は、今度は缶を持っていた。またジュースだろうか。さっきもジュースを飲んでいたし、どうしても意外なのだけど、やっぱり彼は甘い飲み物が好きなのだろうか?
ぷしっと音を立てて、彼の指が缶のプルタブをひねる。そうして彼はそれを一口飲み、ガラステーブルの前の椅子に座った。そんな大したこともない動作の一つ一つも、彼の整った顔立ちのせいか、妙に絵になる。
そんな彼を観察していると、あることに気付いて、私はぎょっとした。先生が飲んでいるのは、よく見たらジュースじゃないのだ。アルコールが入っているもので、母親もよく飲んでいる缶チューハイだ。
「先生、それお酒じゃないですか? 飲んだら、運転できないんじゃ……」
「ああ、君を送る必要がなくなったからね」
焦る私の声に対し、彼の声音のさらっとしたこと。マイペースな彼は、さらにもう一口、アルコールを飲みこんだ。送ってもらう立場で何も言えないのだけど、さすがに黙っているわけにもいかなくて、私はおずおずと言葉を口に上した。
「あの、でも……送ってもらえないと、困ります」
「行くあてがないんだろう? なら、ここに泊まっていけばいい」
本日二回目の、彼の“泊まる”なんて大人の言葉に、ひどく動揺する。さっきの場合は冗談か本気かわからなかったけど、今度ばかりは妙に現実味を帯びていた。この辺の道は知らないけれど、こうなったら自分で帰るしかない。
「行くところはあるんで、大丈夫です。送ってもらえなくても、自分で帰ります」
「三組の彼のところにか?」
気丈に言ってのけた私に、すかさず先生の少し低めの声が飛んできた。やっぱり、会話は完全に聞かれていた。察しの良い彼のことだ、もう状況は完全にばれてしまっているんだろう。
「悪いけど、帰すつもりはないよ。君はここに居るんだ……」
冷静なような彼の声は、私の冷静さをあっけなく奪っていった。
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