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第十章 “Feel No Pain”〔6〕




 切ない瞳に見つめられ、こらえようのない感情が走っていく。


 手を伸ばして、不安定な先生を抱き締めたかった。だけど拘束された腕じゃ、彼を抱きしめることはおろか、触れることすらできない。


「放してください。先生……」


 今度は逃げだす意味じゃなくて、ただ先生に触れたいために、私は先生に解放を望んだ。けれども先生は、私のことをじっと見ながらも、解放する気配を見せない。

 

「放したら、君は逃げるだろう?」


 そう言って、離すまいとするように、先生は私の手首をしっかりと握りなおした。もどかしかった。いくらあがいても、決して届かない想い。もう、こんなのはいやだ。耐えられなかった。


 彼を抱きしめて、彼に想いを打ち明けてしまいたい。打ち明ければ、私のこの耐えられない苦しさは、消えてなくなるだろうか。打ち明ければ……彼の苦しそうな瞳の色も、消えてなくなるだろうか。

 

 ――だけど無責任に打ち明けて、守れるの? タカシの言うことに逆らって、先生のこと、守っていけるの?


 ……そうだ、守ることなんてできやしない。

 タカシのことすら、上手くやり過ごせないのに。

 何の力もない私には、打ち明ける資格なんてない――


 押さえつけられた想いと、どこか切羽詰まったような彼と。限界だった。振り切れたような感情が、涙となって私の頬を流れ落ちて行った。気持ちを無理矢理押し込めようとも、消し去ることなんてできない。こらえられない私の涙は何度も流れていく。


 流れ落ちる私の涙をその瞳に映し、彼は目を細めた。


 そうしてたとえようもないほど優しい指先で、彼は私の涙の一筋をぬぐった。何度も、何度も。きりがないほど流れていく涙のすべてを。彼の指が頬の涙を拾うたび、くすぐったい感覚を覚える。


 やがて私の涙が止まったのを確認すると、彼は拘束していた私の手首を開放した。


 寝そべっている私をそのままにして、彼は起き上がる。立ちあがって歩いていき、彼は立ったままマウスで何やらパソコンを操作した。すぐに小さな機械音が鳴る。どうやらパソコンの電源を落としたようだった。


 遅れて起き上がった私は、目じりに残っていた涙を手の甲でぬぐった。そうしてパソコンの前に立つ先生の背中に視線を向ける。解放されたはいいけれど、どうしていいかわからなくて、私は戸惑ったまま彼に声をかける。


「先生、あの……」


 何を言っていいか、どう言っていいかわからない。だけど強引だった彼の態度が急に変わって、戸惑いは深まるばかり。


「君を好きにしてやろうかと思ったけど、気が変わってね」


 背中からの声だけじゃ、彼の表情はうかがえない。好きにしてやる、なんて意味深な彼の言葉にどきりとする。ようやく振り向いた彼は、何も言えずじっとしている私を見て、腕を組んだ。


「まだそこに居ていいのか? せっかく解放されたんだ、逃げるチャンスは逃さない方がいいよ」


 そんなことを言われ、反射的に、私は急いで立ち上がった。別に、逃げ出そうなんて気持ちはなかった。だけど見透かされたくなかったのだ。解放されてほっとするのと同時に、寂しく思っている自分を。


「俺は教師だ。君は俺に、そう望むんだろう?」


 こんな状況においてもやっぱり表情を保った先生が、ぽつりと私に問いかけた。何も答えられない。私には、答えるすべがなかった。本当はそんなこと望んでなんかいない。そう望むのは、嘘の私だ。


 センセイとしての先生に、惹かれたわけじゃない。私は、先生という人そのものに惹かれたのだ。センセイとか生徒とか、関係ない。


「君の心がどこへ向いていようと、それを見守るのが俺の務めだ。だから君は、君の気持ちにまっすぐであればいい」


 そう言う彼の声は、私をすり抜けてどこか遠くへ向かっていくような感じがした。


「多数いる教師のうちの、一人でしかないんだ。君が俺のことを気にかける理由もないだろう……」


 言い終わって、彼は目を伏せた。長いまつげに縁取られた綺麗な瞳。そこに宿る光が今にも消えてしまいそうで、私の方が不安になった。


 私だって同じだったのだ。多数いる生徒のうちの一人だと、ずっとそれが苦しかった。私と同じことを、彼が思っているなんて。


「先生、」


 彼の代名詞を呼んだら、彼はすぐに私の目を見た。彼の瞳を見つめながら、私はためらいがちに口を開く。


「私、先生のこと怖くなんてありません。私は、ただ……」


 ただ――……何? 何を言おうっていうの、私は。駄目だと制止する自分。想いに負けそうになる自分。押しつぶされそうだった。もうどうしようもなかった。


「私は、わたし、は……」


 ずきりと喉が痛む。声がかすれて上手く話せなかった。……ううん、そうじゃない。そんなのただの言い訳だ。


 思わず立ち上がった私は、先生の近くまで行き、その服の裾を掴んだ。見上げる視線に熱がこもる。もどかしさとか、切なさとか、苦しさとか。そんな言葉にできない想いのすべてを、ぶつけるように。


「近づくなと言っただろう。全く君は……」


 困った顔をした先生が、たしなめるような声で言った。でもその瞳は優しくて、優しいまなざしで私を見ていて、たまらなくなった。


 彼は私を引き寄せた。今度は強引じゃなく、まるで恋人同士がするように。


「……君は無防備だから、こうしてすぐ捕まる」


 抱きすくめられて、頭の上から心地良いトーンの愛しい声が、聞こえた。あたたかい。優しい彼の腕に守られて、とても大切に包まれているようで。


 心地よくて、でもどうしても切なくて。ただ、想いが募っていく。こらえきれない涙がまた、頬に流れ落ちて行くのを、彼の腕の中でそっと隠した。




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