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第十章 “Feel No Pain”〔5〕




 まるで宝物でも扱うように、そっと、でもしっかりと握られた手を、握り返すこともできなかった。


 彼の左手はいまだ、私の肩の横についたまま。彼の片手一本に、彼のささいな動作に、いちいち翻弄され続ける私。


 やがて器用な動きで、彼は私の右手を持ったまま、左手までも簡単にとらえてしまう。そうして頭の上で、シーツに縫いとめられる両手。今度はゆるい握力じゃない。腕を動かそうにも、先生の片手だけの力は驚くほど強い。


 解放されようと力を込めてみたけれど、びくともしなかった。


「はなし、てください。先生、一体なにを……」

「神島、質問しているのは俺だ。君はまだ答えていない……。俺が、怖いか?」


 切羽詰まった私を尻目に、先生の声は相変わらず淡々としていた。押しつめたような息を必死にゆるめながら、私はなんとか普段通りの声を出すよう努めた。


「少し……怖いです」

「そうか。だが、止めてやる気はないけどね」


 正直に答えた私に、彼がまた感情の見えない声で言い放った。強いまなざし。冗談ではとても済まされないような雰囲気を感じ取り、ついに私は火がついたように抵抗した。


 いくら拘束された腕に力を込めようとも、彼の力の前では無意味だ。わかっているけれど、私は何とか彼の下から抜け出そうと、必死になっていた。


「放してください、はなして――」


 彼の目も気にせず取り乱し、みっともなく叫び始めた瞬間。先生の人さし指が、静かに、というように私の唇に縦にとまり、私の声を途中で止めた。


 その指の温度を唇で感じ、はじかれたように鎮まる私。そのままその優しい指先で、形を確かめるように ゆっくりと唇をなぞられてしまい、私は声も力も完全に奪われた。


「何をしている? こういうときは、君は素直にしていればいい。いい子にして、俺の言う通りにするんだ……いいね」


 耳元で聞いたとても甘い声に、強く駆け抜けていく ぞくりとした感覚。


 熱を教え込まれる。教師としてではなく、男の人としての先生に。手首を拘束するなんて強引なことをしておいて、けれども彼は、まるで大切に愛おしむかのような触れ方で私を扱う。


 唇にとまった、彼の指先の熱。先生のこんな優しい指先を、生徒の誰もきっと知らない――


 心臓がどくんと鼓動して、切ない私の感情を吐き出した。力の抜けていく私の身体は、もはや彼にゆだねられた。


 奪われていく。

 動きを、視線を――

 閉ざしたはずの、心を。

 浮かされた熱の中、よみがえるのは、彼を初めて認識したあの日のこと。


 ――“授業始めるぞ。席につけ”――


 その一言とともに教室を訪れ、初めて私たち生徒の前に姿を現した彼。自己紹介の一言もなく、黒板に適当な字で、彼は自分の名前を書いた。


 “月原涼也”。その名前を構成するひとつひとつの文字すら、私にとって特別なものになった瞬間。


 彼は自分を語らない。年は28歳だと、後から噂で聞いた。10歳以上の年齢差。だけどそれ以上に遠い、手の届かない人。


 彼は他人に一切の興味を示さない。ストイックで、冷たくて、熱のないその瞳。綺麗な整った顔はにこりともせず、いつも氷のような無表情。


 適当に愛想笑いしてうまくやればいいのに、まるで他人を拒絶するかのような彼の在り方は、社会人としての大人らしくなく、どこか不器用に感じた。


 彼は大人なのに、不完全のようでもあった。だから知りたかった。だから、鮮烈に惹かれた。恋なんかじゃないと自分を誤魔化しながらも、いつも目で追っていた。


 遠い教卓。遠い職員室。遠い背中。

 私はずっと追いかけていたんだ。


 そして今、生徒じゃ手の届かないはずの彼は、私の目の前で、私だけを見つめている。熱を持った彼の瞳が、私を映し出しているのだ。私は彼の貴重なその熱を、やっと一身に受けることができた。


 ――だけど、こんなんじゃない。私はこんな場面を望んだんじゃない。こうして彼に見下ろされ、その瞳を見つめるほど、私も苦しくなるのだ。


 彼が彼らしさを失い、冷静さを放棄するほどに。彼の瞳に宿るその熱は、とても苦しそうに揺れているから――


「また気を逸らしているね。……君は、誰を見ている」


 ふと降りてきた彼の声が、一瞬だけ揺れて、私の耳に届いた。


「俺を好きだと言っていたその感情は、もう消え去ったのか?」


 返答を待たず、ただ無心に、私に問いかけ続ける彼は無表情だ。だけど私の手首を拘束する彼の手に、少し力がこもった。




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