第十章 “Feel No Pain”〔4〕
夢にも見たこともない、まるで押し倒されたような状況だった。本当にこれが現実なのか疑わしい。
捕らわれたまま、私はなすすべなく彼を見上げる。信じられないこの状況で私を見下ろしながら、彼は引き下がる気配すら見せない。早すぎる呼吸のせいで、私の胸が絶え間なく上下している。
「呼吸が早いな……緊張しているのか」
まるで今気付いたかのように、彼はわざとらしく私に尋ねかける。もちろん、私に答える余裕なんてない。彼もそんなのは承知の上だろう。
緊張して余裕のないのを、すべて見透かされている。私と違って余裕な彼に、冷静に状態を分析されているのが、恥ずかしくて仕方がない。
「落ち着いて、ゆっくり息をしてみろ。ほら、手伝ってやるから……」
言い聞かせるように言いながら、彼は私の肩の横についていた右の手を引いた。彼の手が離れた瞬間、ベッドが背中でぎしりと音を立てた。その小さな音にすらも、今の私は簡単に追い詰められてしまう。
ゆっくりと私に伸びてくる、先生の大きな手のひら。それが胸元にそっとあてられた瞬間、――息が止まった。
けれどもそうして、あくまでも胸元でとどまる彼の手。別に胸に触られたわけでも、触ろうとされているわけでもない。人並みでささやかな私の胸に、彼の手は届いていない。
まるで、私をあやして落ち着かせるかのようなそぶりで。彼の手に、首の付け根から胸元にかけて、何度もやさしく撫で下ろされる。撫でおろしては、離れて。再び触れては、また撫でおろす。触れられるたび、私が何度もびくりと反応するのを、彼の眼はしっかりと観察している。
与えられ続ける感覚は、ゆるやかなまま。頭がおかしくなりそうだった。撫で下ろされるたびに、余計に早くなっていく呼吸。これじゃ、彼の手に伝わってしまう。早鐘のような鼓動までも――
「神島、ちゃんと俺の言うことを聞いて。全く上手くできないね、君は……」
仕方がないな、というような、子供を見守る親のような言い方。その甘やかした声までもが、ゆるやかに私を責めてくる……。シーツを握りしめている手のひらが、汗ばんでいくのを感じた。
ふと、動いていた彼の手のひらが、胸元で動きを止める。心臓の音が、彼の大きな手のひらを介して伝わっているのが、自分でもわかった。確かめるように、彼は早すぎる私の鼓動を感じ取っている。
張り詰めた緊張の糸は、彼によって もてあそばれていた。
「脈拍も随分早いようだが、どうした?」
わかりきっているくせに、彼は意地の悪い質問をして、私に更なる揺さぶりをかけてくる。震える唇では、言葉の一つも紡ぎだせない。私が抵抗できないのをいいことに、彼はその右手をようやく私の胸元から離したと思うと、その手で私の左手をシーツから引き剥がした。
とらえられた私の手のひらは、彼の手のひらの温度を敏感に感じ取る。暖かい、を通り越して、少し熱いほどの熱を持った、彼の手。
その手に導かれるまま、私の手は彼の口元に固定される。まるでおとぎ話の中、王子様がお姫様の手の甲に、キスをする時のように。
「俺が怖い?」
いつかも聞いたような台詞。私の手をその唇の寸前に置いたまま、彼はそんなことを問うてきた。けれども私はそれどころではない。指先にわずかにかかった 彼の吐息を敏感に感じ取り、さらに心を乱す私。
まっすぐに私を見つめるその視線に、射られるようだ。心の奥底で、ひそかに望んだキスは落とされることなく、彼はただ私の手を、優しく強く握った。