第十章 “Feel No Pain”〔3〕
彼は椅子に座ったまま、動こうとしない。回転するタイプの椅子ごとこちらを向いている彼と、少し離れた距離感。表情がうかがえないから、余計に言われたことの深い意味が気になった。
「交換条件……?」
恐る恐る、私は彼の台詞の中で最も重要と思われる単語を復唱することで、その意味を問うてみた。
「そうだ。例えばさっき俺が言ったことすら、交換条件として実行することができる」
淡々とした声は、まるで英語の和訳でも説明している時のよう。さっき言ったこと、とは何のことだろうか。考えている私を見て、彼はわかりやすく補足までつけてくれる。
「秘密を守ってやる代わりに、君をここに閉じ込める、と……」
彼の補足したその内容は、思いがけないものだった。大きな衝撃を覚え、私は思わず息を呑みこむ。
「ここに居たいと駄々をこねて、いつまでたっても学習しない君には、丁度いい薬だろう?」
やっぱり妙に落ち着いた声で言って、彼はやっと立ち上がった。そのまま私の前に来るのかと思ったけれど、彼は私の横を素通りして、部屋の入口まで歩いていく。
そうして先生はなぜか、部屋のドアを閉めてしまった。かちゃっとドアが閉まる小さな音を聞いてしまい、私は瞬時に追い詰められていく。
どうして、わざわざ部屋のドアを閉める必要があるのか。私を閉じ込めるって、まさか本当にそんなことを……?
急速に速まりだす鼓動。今日一日でもう何度目かもわからない、耐えがたい動揺が走っていく。
「そんなにこの部屋が気に入ったなら、泊まって行ってもいいよ。君はそこで眠ればいい……」
泊まる、なんて大人な単語が彼の口から出てきて、いよいよ私は本格的に余裕をなくした。思わず握りしめたのは、彼のベッドのシーツ。それに気付いて、ひとりで勝手に動揺を深める私。
隣の部屋に居たさっきまでとはわけが違うのだ。部屋の薄暗ささえ、私の緊張を無意味にかきたててくる。
「せ、先生は、どこで……?」
「俺か? 俺は……そうだな、君の添い寝でもしようか」
私の上ずる声と対照的な彼の声音は、さらに私を追い込んで来る。何も考えられない。彼が何を考えているのか、全くわからない。この状況は少し怖くて、逃げ出したくなるけど、どうしていいかもわからなかった。
そんな私の気持ちなんて置いて行ったまま、大人の先生は、子供な私を易々と手玉にとって翻弄していく。
「何なら、今すぐ横になるか? 君は眠そうだったからね……」
彼は、相変わらず衝撃的な台詞を、冗談めいた言い方で面白そうに言う。そうして彼はついに私のところまで来て、その手を伸ばしてきた。
肩をとん、と押され、私はあっけなく、背中からベッドにどさりと倒れこむ。なすすべもなく、抵抗するどころか動くこともできず、されるがままの私だった。
私のセミロングの髪が、彼のシーツの上に広がっているのが横眼に見えた。足だけ垂らしてベッドに仰向けに寝そべった状態の私。その私の足元に、彼が座る。
そうして斜めに身を乗り出してきた彼が、両手を私の肩の横につき、覆いかぶさるようにして私の顔を覗き込んできた。目が合った瞬間、実感する。そうだ、先生は大人なんだ。彼と私の違い。これが――大人と子供の、違い……?
だけど彼は今まで、大人であることを感じさせはしても、生徒に対して大人ということを誇示したりするようなことはしなかったのに。どうして、こんな――思い知らせるような行動をするんだろう。
薄暗い中、私を見下ろす彼の顔が、私の視界にさらに影を落として。私はすがるように、強張って力の入った手で、ベッドのシーツを強く握りしめる。
緊張のあまり、知らず知らずのうちに 私の呼吸は浅く、早くなっていた。
「どうした、そんな顔をして? 心配しなくても、眠れなければ寝かしつけてやるよ……」
冷静に私を観察しながら、甘やかすように言って、彼はくすりと笑う。怖いのに、目がそらせない。不安定な揺らめきを湛えた、その瞳から。