第十章 “Feel No Pain”〔2〕
生徒を相手に、彼はなぜか 試すような言い方をする。意味深なことを言われるたび、ざわめき出す私の心は、見透かされているだろうか。
その真意を測るため、先生の瞳をじっと見つめてみる。すると先生の表情がわずかに動いた。彼は大人だ。あくまでも子供のように感情的にはならないけど、少しの苛立ちをこめたようなまなざしだと思った。
「どうして逃げ出さない? 冗談だとでも思っているのか」
まっすぐ、直線的に向かってくるその声に、ちらつく彼の感情。先生が先生らしくないのは、今に始まったことじゃなく、最近ずっとだ。
「逃げ出す理由がありません」
ひるむことなく対峙する私に、彼は小さく笑った。息を吐き出すような彼の皮肉な笑いは、どこか冷静さを欠いている。再び開かれた彼の口からは、またさっきと同じ、冷たい声が出てきた。
「逃げる理由がない? 俺が教師だからか?」
「違います! そうじゃなくて……」
「もう時間だ。送るから、用意して」
彼は 私の必死な言い分なんか簡単に切り捨てて、まるで聞き入れない。有無を言わせない台詞。従うしかない生徒の私。そうして先生は、私から離れて奥の部屋に消えていく。
引き留めるために出そうとした声は、チクリとした痛みによって出せないままに終わった。さっきうたたねして起きてからだ。どうも喉が痛んでいる。あれだけ雨にぬれたのだ。もしかしたら風邪をひいたのかもしれない。
気持ちと同じに落ち込んだ視界に入り込んできた、床に広がる制服は乾いているようだった。時間も十分過ぎた。両親はまだ帰っていないかもしれない。けれどさすがに夜になれば帰るだろう。少し待てばいいだけの話だ。
私がこの部屋を去るべき理由は、たくさんある。そして、私がこの部屋にとどまる理由は、もはやなくなった。
さっきの先生の表情と、冷たい声音が、痛い。やっぱり、先生には私の気持ちなんて、これっぽっちも伝わらない。全然伝わっていない。先生は、私のことなんて……
――違う、そうじゃないんだ。伝わらないように仕向けたのは、他の誰でもなく、私。
先生を守るためって、そう自分に言い聞かせた。だけどもう好きじゃないと言いながら、私の気持ちはこんなにもあからさまで。先生から見たら、きっと矛盾だらけでわけのわからない生徒だろう。
先生は戻ってくる気配を見せない。もしかしたら、私が着替えるために気を使っているのだろうか。先生の部屋に来たことは、誰にも知られてはいけない。先生の服のままで帰るわけにもいかないのだ。
扉の向こう側に居るはずの彼を気にしながら、私は手早く制服に着替える。そうして、着ていた先生の服を丁寧に畳んだ。洗濯くらいはして返したい。だけど鞄に入れようにも、教科書が邪魔で入らなかった。
彼はまだ戻ってこない。何か袋を借りようと思い、私はたたんだ服を持ったまま、隣の部屋に通じる扉を、遠慮がちに開く。
その部屋は、どうやらベッドルームらしかった。窓にひかれたレースカーテンに、夕方の光は遮られてしまっている。夕暮れ時特有の少しの薄暗さに、戸惑いを覚える。
彼は壁際にあるパソコンで、仕事らしき文章を打ち込んでいた。椅子に座ったその背中に近づくと、私の気配を察知したらしく、彼が振り向いた。察しのいい彼は、私の手の中の服を見て、すべてを理解したようだった。
「いいよ、そのまま置いて行って」
それだけ言って、彼はまたパソコンに向き直る。だけど服を借りておいて、洗濯もせず置いていくなんて、そんなことできっこない。彼の背中に向かって、私はおずおずと抗議する。
「でも……洗濯くらい」
「その服を持って帰って、俺に返すところを見られたら困るんじゃないのか」
彼は相変わらず背中を向けたまま、感情の読めないいつもの声で告げる。確かにそうだ。だけど、困るのは彼も同じはず。どうして、見つかったら私だけが困るような言い方をするんだろう。
「誰にも知られたくないんだろう? 誤解されたくないと、君は言っていたからね。秘密は守ろう」
キーボードをその指先でカタカタとはじきながら、彼はその音と同じ、単調な言い方をした。彼の口からの秘密なんて直接的な単語に、少しだけざわつく心。何も言えない。言葉は見つからない。先生の心は、見えなかった。
彼はパソコンの前に固定されたかのように動く気配を見せない。さっき私を急かしておいて、こう放置されるとどうしていいかわからない。
立ち尽くしているわけにもいかなくて、でものどの痛みと同時に少し体がだるくなってきていた。座りたいけど、座れそうなのは彼のベッドくらいだ。なんとなく、それだけは避けねばと思ったけれど。キーボードの単調な音しかないこの部屋で放置され、私は心から疲れてきた。
もうどうでもいいや、とそんな心境になっていく。投げやりな気持ちで、私は彼が普段使っているであろうベッドに、浅く腰かけた。
そっと座ったのに、ベッドのスプリングがぎしりときしむ。しんとした室内で嫌に目立ってしまったその音を、彼も聞いたようだった。
「少し待ってくれないか。この書類が片付いたら、送るから」
振り向かないまま手短に告げ、彼はマイペースに作業を続ける。私がベッドに座ったことは、特になんとも思われていないようだった。
彼の指先がつむぎ続ける、キーボードの音すらも愛おしい。その音に紛れ込ませるように、私は本心をぽつりと漏らす。
「ずっと待ってます。ずっとここにいたいんです、だから帰れなくても……」
私がそう言った瞬間、キーボードの音が最後にカタッとひときわ大きく鳴り、そしてそこで途切れた。再び私を振り向いた彼が、妙に落ち着いた声で言葉を発する。
「君は自覚が足りないな。気付いているか? 今日のことを秘密にしておく代わりに、俺は交換条件を持ちだすこともできると……」
逆光で、彼の表情がよく見えない。薄暗い空間の中、心臓が鼓動を開始していた。