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第十章 “Feel No Pain”〔1〕




 あの後、先生は結局出て行って、部屋の静けさはより一層増した。



  第十章 “Feel No Pain”



 心の葛藤を振り切るように、すぐに浴室に飛び込んだ私。蛇口をひねって飛び出したシャワーは、ぬるま湯のようだった。一応、温度調節の仕方を教えてもらったけど、今はそんな簡単なことすら面倒だ。


 面倒――それは彼の行動を制限する、唯一の単語だったっけ。けれど最近の彼は、私のことに関しての面倒を、自分から引き受けていた。


 ――“俺が今 ここで、教師であることを放棄すれば、君は逃げるかな……”


 その言葉の深い意味を探ろうとすればするほど、胸が、騒ぐ。教師であることを、放棄する。その言葉がどんな意味を持つのか。知りたいけど、知りたくない。だって私は もう、二度と生徒であることを放棄できない。


 忘れることはない、衝撃的なあの夜。他人に見られてはならない写真。きゅっと蛇口をひねり、私は水にぬれた唇をかんだ。


 浴室を出た私は、ドライヤーで髪と制服と下着を乾かした。完全に乾かなかった制服は、乾きやすいように床に広げさせてもらう。そうして、私は乾いた下着の上から 彼の残していった上下の服を着てみる。


 長身の彼の服は予想通り、私の手足にはかなり余っていた。そんなことにすらいちいち胸を騒がせる、なんて子供な私。


 することもなくなった私は、先生の部屋を再び見回してみる。先生の使う机、先生の座っていた椅子。先生の読みかけの本。どれもたいしたことはない、部屋にあって当たり前のもの。でも彼のものだというだけで、とても貴重で愛おしい。

 

 床に伏せてある読みかけの本を手に取り、ぱらぱらとめくってみる。わからない単語だらけだった。高校生の知識レベルじゃ、読めないのかもしれない。彼が居ないのをいいことに、私は本を握ったまま、行儀悪くソファにもたれかかってみる。


 本を読もうにも読めなくて、何をするでもなく、だらける私。すると次第に襲ってくるまどろみに、つい手放していく意識。ゆっくりと、私の脳裏に焼きついた様々な映像がよみがえっていく。


 そうして最終的に残るのは、愛しい人の、少し困惑した笑みだけ――


 そのまま、空白の時間を感じていた。しばらくたってからふと、瞼の向こう側の明るみが見える。誰かの手に髪を撫でられているような気がして、ゆるゆると目を開けた。


 視界に飛び込んできた見慣れない部屋を、上手く働かない頭のままぼんやりと眺めてみる。ああ、あのまま眠っていたんだ。夕方の光に包まれた室内。眠る前はまだ昼間だったのに、よほど熟睡してしまったのか、時間がたつのが随分早かった。


 不自然な姿勢で寝ていたせいか、体中が痛む。何か夢を見ていた。なんだか優しい手に髪を撫でられていたと思ったけど、それも夢だっただろうか。


「ああ、起きた?」


 横から、淡々としたトーンの愛しい声が降ってきた。顔をそちらに向けてみると、少し離れた隣に先生が座っているようだった。


 夢と現実の狭間で、まだ理解が追いつかない私。先生は、私がさっきまで持っていたはずの本を膝に乗せて、読書している様子だった。


 学校と同じワイシャツにスーツで、部屋で適当に座っているその光景。に、多少の違和感。帰ってきたばかりなのだろうか? そんな堅苦しい恰好じゃくつろげないだろうに、なんて余計なお世話なことをぼんやりと考える。


「随分、熱心に寝ていたね」


 ぽつりとしたような先生の声に、ようやく私は 自分が最悪な事態にあることに気がついた。人の家で、だらしなく眠りこけるなんて。しかも、よりにもよって先生の部屋で。私は何をしているんだろう。


 それに、先生が読んでいるあの本。眠る前は、確かに私が握っていた。もしかしたら、寝ているうちに落としてしまっていたかもしれない。小さくなりながら、私は先生の様子を窺うように声をかける。


「すいません、つい……」


 か細い私の声を難なく耳に拾ったらしい先生は、本から視線を上げて私をちらと見た。


「別に構わないよ。だが安心しきっているのはいいが、少し気をつけた方がいい……」


 そう言った先生を、私はまだ寝起きの気だるい気分のまま、じっと見てみる。


 人の家で無礼に眠りこけるなんて失態、気をつけた方がいい。彼が言ったのは多分そんな意味で、別に不自然な言葉じゃない。けれど、なんだか含みのある言い方だと思った。 


 さっき一瞬私に向いた彼の視線は、すでにその手元の本に奪われてしまっている。私もその本に視線を向ける。やっぱり、私が持っていたその本だ。私の視線を感じたのか、先生が再び私を見た。


「ああ、これね。落ちていたけど、読んでいたのか?」


 何でもないような先生の声が、私が本を落としたという事実を確定づける。読みかけの本を勝手に取った上に、眠りこけて床に落とすなんて最悪だ。先生は別に気にしていないだろうに、私は勝手に追い詰められたような気分になっていた。


「すいません、勝手に取って落として……。読もうとしたけど、読めなかったんです」


 言い訳じみた私の台詞を、責めるわけでもなく、許すわけでもなく。しばらく黙った先生だったけれど、ふと思いついたように口を開いた。


「読んでやろうか?」


 それは、予想外の台詞だった。先生の部屋で、難しい英語の本を読んでもらう。なんだか個人授業のようで胸がざわついた。


 そんな私の内心なんて知るはずもない、マイペースな彼である。是か非か、私の返答を聞くこともせず、膝の上にのせた本のページを 初めからめくり、ゆっくりと読み始めた。


 授業の時のまずまずの発音とは違って、流れるような自然な発音。驚きだった。このレベルなら、海外でも余裕で通用しそうだ。やる気のない彼のことだ。授業では、適当に読んでいたのだろう。


 隣に座った愛しい人、少し開いた距離感がもどかしい。本をのぞきこむふりをして、肩が触れる寸前まで先生に近づいてみる。そんな私に、一瞬彼の声は途切れたけれど、それはほんの一瞬で、彼はすぐに読むのを再開する。


 彼の紡ぐ声に耳を傾けていると、気持ちが安らいだ。単語の意味を知らないから、日本語の訳は分からないけど、心地がいい。ゆっくりと、言い聞かせるように、彼の声は本の上の文章をなぞっていく。


「――He said, ″I feel no pain″……」

「“痛みを感じない”? どんな内容の本なんですか」


 やっと意味のわかる部分を聞き取った私は、遠慮なく横やりを入れた。痛みの感覚を消す、という意味であれば、ファンタジー系だろうか、と、内容に全くついていけていない私は、そんなことを考えていた。


 けれど何を思ったのか、彼が一瞬ほんの小さく、苦く笑ったのを、私は見逃さなかった。先生が、授業でもないのに 英語を読んでくれているだけでも奇跡的なことだ。その上、内容の説明なんて甘いことはしてくれないだろうと思ったけど、先生は意外にもすんなりと教えてくれた。


「この 主人公の男の願いは届かなかった。だが彼は大人であるが故に、素直に苦しみを吐き出せない。その時葛藤しながら、彼が心を隠して言った台詞だ」

「その人の願いは、かなうときが来るんですか?」


 答えてもらったのをいいことに、遠慮なく質問を続ける私。すると先生は小さくため息をつき、ぱたりと開いていた本を閉じる。そうしながらも、彼は一応、またの私の質問にも答えてくれた。


「いや……。たいして面白くもなく、くだらない話だ。暇つぶしくらいにはなるけどね」


 いつものごとく冷たい声は、会話をそこで終わらせ、彼は立ち上がった。そうしてまた冷たい声が、とうとう私が一番聞きたくないことを言い始めた。


「送ろうか、もう帰る時間だろう」

「お願いします、もう少しここに居させてください」


 同じように立ち上がって、間髪いれず、私は食い下がった。まだ帰りたくない。まだここに居たい。まだ、先生のそばに居たかった。そんな私の態度に、彼はその冷めた色をした瞳を、少し細めた。


「怖いのなら、あまり近づかない方がいい。そういう行動は、君にとって望まない結果を招くかもしれない……」


 冷たい声が、意味深な台詞を紡いでいく。彼が少し怖くもあった。でもどこか愁いを帯びたようなその表情に、惹かれてしまう。


「……そうだな。君をここに閉じ込めて、二度と出られなくしてやるのも面白いかな……」


 そんな衝撃的な台詞を、まるでなんでもないことのように言ってから、彼は再び、陰りある笑みを漏らした。



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