第九章 “Don't Take Distance”〔7〕
築き上げられた“センセイと生徒の境界線”が、私の中でぐらぐら揺れている。センセイのはずの先生が、私に素顔を、隙を見せるほどに。先生が、生徒であるはずの私をまっすぐに見るほどに。
いつも、私は必死になって壊そうとしていた。強固な壁。決して交わることのないような、センセイと生徒の境界線。
なのに今、私はその壁を必死に守ろうとしている。そしてよりにもよって、その壁を壊すような行動をとるのは――彼。立場は、以前とまるで逆になっていた。
こんなにしんとしていては、少し黙っただけでも沈黙のよう。ややあって、少し目を伏せた先生が、ぽつりと言葉をこぼしていった。
「君の望まないことは言わないさ。俺は教師だからね……」
予想通りというか、彼は、私の欲しい言葉はくれなかった。さんざん揺らがせておいて、最終的にはまた“教師”。
「ずるいんですね」
小さく告げながら、そうじゃない、ずるいのは自分の方だと思った。生徒の建前の台詞で、彼の言葉を上手くごまかして。先生に、センセイであることを自覚させるようなことを言っておいて。
生徒の領域を守ろうとしているふりをしながらも、密かに先生に望むのは、正反対のこと。待っている。再び彼の共犯者になれる、その時を。“いけないこと”だと思いながらも、彼の手で強引に、壁を壊してほしいと切望している。
先生は、相変わらず頬杖をついたまま、そこを動かない。私を見ながら、彼は少し目を細めた。
「俺を怖がっていただろう? ここで大人しくしていれば、時間は過ぎる。心配しなくても、じきに解放されるさ……」
淡々とした、感情の読めない声だった。怖がっている、なんて。やっぱり、先生は私を見誤っている。
先生の気持ちはもしかしたらやっぱり、私の思っているとおりかもしれない。だけどそうじゃないかもしれない。考えてみても、答えは見つかることはない。
生徒の仮面の内側の、私の本当の望みに気付いてほしい。でも、気付かないで……
「シャワーを、借りてもいいですか」
思いついたような私の言葉を受け取り、先生は少し満足したような言い方で「ああ」と言った。
立ち上がった先生の後に続き、脱衣所まで案内される。先生はシャワーの温度調節の仕方とか、タオルがどことか、シャンプーがどれとか、必要なことをいくつか説明した後、部屋を出て行った。
脱衣所の鏡に映る自分は、思っていたよりも悲惨な状態だった。これじゃ、先生もシャワーを使わせたくもなるだろう。
先生の部屋でシャワーを借りるという行為は、やっぱり落ち着かない。目に入ってこようとする、自分の透けた下着から目を逸らし、私は唇をかんだ。
ため息を吐き出し、ようやく制服を脱ぎかけたその時、私の耳は 扉の向こうの音を敏感に察知した。玄関のドアを開けるときの音だ。もしかして先生は、学校へ戻ってしまうのかもしれない。
脱ぎかけた冷たい制服を急いで着直して、私は脱衣所を飛び出した。脱衣所の前には、綺麗にたたんである服が置いてあった。
シャワーを浴びて、この服を着て、先生の帰りを待って。そうして彼に送られて家に帰る、いい子の生徒であれということか。やっぱり、いつものとおり。気まぐれな彼は、私を好きなだけ翻弄しておきながら、あっけなく放置していく。
「待ってください。行かないで……」
間一髪で間にあった私の声は、出ていこうとしていた彼の背中を 引き留めることに成功した。
いつの間にかスーツに戻っていた先生が、少し緩慢な動作で私を振り向く。彼の手によって開かれたドアは、彼が通ることなく再び閉ざされた。
何か、とでも言いたげな視線は、教室での彼のようだ。彼はもう仕事に戻らなければいけない、わかっている。だからここで引き留めることは彼の迷惑にしかならない、知っている。こうして引き留めるのがどんなに子供じみた行動か――知っている。
それでも理性の向こう側で、我を忘れた自分をとめられなかった。何も言わず、距離を詰める私。そんな私を、先生も黙って見ていた。けれども近くまで来たところで、先生はぐいと私の片腕を引いた。
「懲りないね、君も。また捕まりたいのなら……今度は逃げられないように、教え込んでやろうか」
引き寄せられたことで、先生の声がまた、近くにあった。
先生の手は私の腕を開放し、そして私に向かって伸びる。その彼の指先は、急いで着たせいで折り曲がっていた私の制服の襟を直し、また戻っていく。
もう捕まえてくれない。痛み始める心。タカシに縛られ消したはずの想い。だけど押し付けた想いはあまりにも大きくて、制御なんてできなかった。
教室での先生のように、完璧な生徒の仮面なんて持っていない。だから自分勝手で、矛盾して、私は――
「もう私のこと、捕まえては……くれませんか」
思いつめたような声は、また私の理性の外側から出て言った。唐突な私の台詞が さすがに予想外だったのか、先生は驚いた顔をした。そうして慎重な目をして、彼は私をじっと見る。
「君はわからないことを言うね」
そんなことを言う彼の瞳に、見たことのない感情の色が見え隠れしている。そうして先生は再び伸ばした指先で、少し乾いてきている私の髪のひと束をとる。雨に濡れて自然乾燥しかけた私の髪だけれど、あまり傷んでいないそれは、彼の指先をさらりとすり抜けてこぼれていく。
「俺が今 ここで、教師であることを放棄すれば、君は逃げるかな……」
まばたきも忘れ、髪と一緒にこぼれおちて行った先生の言葉の意味を、探る。独り言のように、彼は私の返答を待つことなく続けた。
「君は掴みどころがなくて、本当に、……厄介な生徒だよ」
さっきと同じ、どこか自嘲するような、陰りを増した彼の笑い方。けれどもさっきよりも、困惑したような笑みだと思った。