第九章 “Don't Take Distance”〔6〕
先生のキスを、拒んだ。拒むつもりなんてなかったけれど、顔をそむけてしまった。拒まれたと受け取られてしまったかもしれない。
強制的に押し込んだ想いが、ずきずきと疼いていた。私が目を閉じてから、先生は全く動きを見せない。数秒経っただろうか、私は様子を窺うように、恐る恐る目を開けてみる。同時に、騒ぎ出す心。余裕なはずの先生の目が、どこか寂しそうに私を見ていた。
「……見てきていいよ、着信が気になるんだろう」
手短に告げて、先生は、私を壁の前に置き去りにすることで開放する。さっきの先生の表情が少し気になってはいたけれど、私はスマートフォンのチェックを優先するしかなかった。
ソファのそばに駆け寄るが早いか、私は屈み 鞄の中を急いで探る。スマートフォンを鳴らしていたのは着信でなくメールだった。少し急きながらも、私は送り主の名前をチェックする。けれども私の予想は外れて、メールはユキからだった。早退した私の体調を心配する、何でもない内容。気にしすぎだったのだ。度の過ぎた心配は、私の完全な杞憂でしかなかった。
「気が済んだ?」
いつもどおり淡々とした先生の声が飛んできて、私は彼を見やった。先生はいまだグラスを持ったまま、気だるげに足を組み、ガラステーブルの前の椅子に座っている。
それは、教室で見る仕草そのまま。だけどどうにも落ち着かない。学校とは違った彼の服や乾きかけの髪が、彼の私生活を思わせるのだ。
壁に押し付けられたまま聞いた 先生の甘い声音が思い出され、頭から離れなくなっていく。気をそらすように、私は彼の手のグラスに視線を落とす。揺れるオレンジ色は、さっきよりも少し量が減っていた。そんなどうでもいいことを観察していると、先生がふと、言い聞かせるような口調で言った。
「シャワーを浴びた方がいい。そのままだと本当に、風邪をひく」
「大丈夫です。私、頑丈なんです」
そう返して、先生の再びの申し出を、まだ突っぱねる私。本当に可愛くない生徒だ、もう意地になっているのかもしれない。けれども実際 制服は乾いてきているし、このままいけば座ることくらいはできるだろう。
そうだ、タオルを敷いてその上に座ればいい。思いつかなかった。名案にたどり着いた私は、開き直ったような心境で、シャワーを借りない選択肢を選ぶことに対する迷いを断つ。
「私はもう平気ですから、構わないでください……」
弱々しい声ではあったけれど、私は言葉通り、構わないでとばかり目をそらし、壁を作る。音のない空間で 流れる沈黙の中、私は黙り込む。後ろめたかったのだ。これ以上、自覚したくなかった。着信がタカシでなく 私の勘違いだったなら――彼とキスをしたかった、と。そんな浅はかなことを考える自分を自覚してしまうから、目を逸らしたかった。
けれども密やかに訪れた彼の部屋で、二人きりで彼の瞳を見るほどに、さっき与えられた、背筋の甘い震えがよみがえり、そして思い知らされるのだ。
愛しさと切なさにのまれ、先生を求めて止まない自分。無意識のうちに望んでいる。もう一度、先生に捕らわれてみたいと。大人の男の人である彼が、怖い気持ちもあるのに。呑みこまれたいなんて。……私はおかしい。こんなの、絶対に変だ。
「ずっとそうして、濡れたままで居るつもりか?」
ふと、沈黙を破り投げられた彼の声。同時に、ガラステーブルにグラスを置く音が聞こえた。しんとした室内で妙に響いたその小さな音に、私は思わず顔を上げる。
「それでも俺は構わないが……」
言葉を続けながら、先生はまた、まっすぐに私を見ていた。私を見たままテーブルに頬杖をつき、彼は少し首を傾げるような仕草をする。そうして いつも通りの平然とした顔で、先生がゆっくりとした言葉を発した。
「男の前で、あまりそういう姿を見せない方がいい……」
息が止まるほどに はっとした私は、慌てて自分の全身を見た。そしてすぐに気付く。最悪なことに、少し下着が透けていたのだ。
胸元で濡れた制服を握りしめながら、動揺を抑えられない私。男だなんて、どうしてそんな言い方。先生はセンセイなのだ。男とか女とか、私と彼の間には関係ないはずなのに。
彼の言葉は、まるで“子供の生徒に対するものではない”。そこに思い至ってしまったが故に、私は思わず息を呑み込んだ。
増していく動揺。先生は別に、私のことをいやらしい目で見ているわけじゃない。そのいつものままの無表情に、そんな低俗な色はかけらも宿っていない。いつか先生を待っていたときに絡んできた、あの酔った男とはわけが違うのだ。だからこそ、その言葉の深い意味を、余計に勘ぐってしまう……
彼が、“大人の男の人”だということを、意識するほどに。無防備な、誰も知らない、センセイじゃない彼の私生活を実感するほどに。生徒じゃ知ることのできないはずの彼の素顔を、見せつけられるほどに。高鳴る感情と、戸惑いと。……目はそらせない。彼の一言 一言に、翻弄されるばかり、私は飲みこまれていく。
「せっ……“先生”の前でも、駄目ですか?」
苦し紛れに、私は生徒の建前上の言葉を返してみる。動揺により揺れた私の声は、そのまま彼の耳に届いたようだった。少し離れた距離で、先生はふとしたように表情を動かし、そしてまた口を開く。
「教師だから、例外だと思うか?」
目を見開く私。その言葉、どう受けとればいいんだろう……。何と言葉を返していいかわからず、私は苦心していた。そんな私を眺めながら、先生は少し皮肉に笑った。どこか自嘲するような、陰りを増した笑い方だと思った。
「ああ、わかっているよ。君にとっては、例外だったね……」
私の返答を待たずして、先生は言葉を落としていく。いつもより少し低いトーンの声で、紡がれた言葉の深い意味。
“君にとっては”? まるで先生にとっては違うと言っているかのよう。
「先生にとっては……違うんですか?」
思わず問いかけた私を、先生の冷静なような瞳が映し出していた。