第一章 “Yes,I Long For You.”〔6〕
先生が、私をその瞳に映している。そう思うだけで緊張から体が強張った。私は壁の陰に隠れ直すことすらできず、先生の視線にさらされたまま、只その場に佇んでいた。
いたずらが見つかった時の子供の心境だった。――いや、犯罪が暴かれたときの犯人の心境と言ってもいいかもしれない。手に汗をかいている。
「この場所は誰も来ないから、知られてないと思ってたんだけどな。……迂闊だった。まさかのぞかれていたとはね」
歩いて私の前までやってきた先生に、まるで自分がいけないことをしていたような感覚に陥り、かっと顔が熱くなる。
違う。私が悪いんじゃない。私はなにも悪いことなんてしていない。悪いことをしていたのは、目の前のこの人の方だ。そう自分に言い聞かせて、やっと平静を装った私は静かに口を開く。
「禁煙、ですよ。校内は。……先生たちも一斉禁煙のはずですけど」
頭一つ分上にある目線を見上げながら、前に先生が言った言葉を真似て、そっくりそのまま投げてみた。でも、彼は全く動じていない。タカシにしていたように余裕な目をして口角を釣り上げた。
「……ああ、知ってるよ」
「しかもそれ、没収した生徒のでしょう。掃除時間に何、やってるんですか」
言ってる言葉の内容は強気なくせに、私のなんて気弱なことか。あろうことか声が少し震えてしまった。この状況で動揺するのは先生のはずなのに、どうして私がこんなに。悔しくて仕方ない。私の内心を知ってか知らずか、先生は平然として答える。
「見逃してくれないかな。こっちも、ばれるといろいろ困るんでね」
「いいですよ。……貸しにしときます」
余裕な先生に必死で対抗しようと気を張っている私に、先生はゆるく表面的な微笑みを浮かべた。冷たいその瞳の色に怯みそうになる。
先生はポケットから取り出した小さな携帯の灰皿に、吸いかけの煙草の火を押し付けた。蓋をしたそれはまた先生のポケットの中に隠される。証拠隠滅、ということだろうか。抜け目ない。
「この前、俺が見逃したのは貸しにならないわけね。意外にいい性格してるな、神島さん」
「知ってたんですか、私の名前」
意外だった。先生は私の担任でもないし、たった一教科受け持ってるだけで。今までテストを配る時答案に記された番号と名前を読み上げる以外に、名前を呼ばれたことなんてなかったから、てっきり知られていないと思い込んでいたのに。
「知っているさ。この間の俺のテストで唯一、100点取った生徒だから」
先生は何でもないような言い方でそう言ったけど、本当に信じられなかった。名前だけでなく、テストの点数まで覚えているなんて。彼は100点の答案を渡す時、私を見なかったのに。次の生徒の答案用紙しか見ていなかったのに。採点の時に名前を覚えたのだとしても、それだけじゃ顔と名前が一致しないはずだ。
私は高ぶっていく感情を必死に抑えつけながら、冷静を装って口を開く。
「……先生は、私なんて知らないのかと思ってました」
「君みたいな優等生を知らない訳がないだろう。先生方も君を気に入ってるよ」
淡い期待は先生のその一言で儚く消えてしまった。がっかりだ。
大人しく目立たない、真面目な優等生。確かに私はそう言うイメージで見られることが多い。特に学校のセンセイたちには、昔からそんな風に思われることがほとんどだった。
ガリ勉って感じがして、私はそれがすごく嫌だった。それでも望まれるまま、私は今日まで優等生をやってのけてきた。別にあのセンセイたちに何と思われようがどうでもよかったからだ。
でもこの前のテストで100点を取ったのは違う。私が優等生だからじゃない。先生のテストだからだ。先生はそこをわかっていない。
わかっていないまま、他のセンセイたちと同じように、先生までが私をそんなイメージでひとくくりにすることが、なんだか悔しくて腹が立つ。腹が立つから、絶対に見逃したりなんかしてやらない。
「そんなこと言って褒めたつもりかも知れないですけど、貸しは貸しです。たばこを吸ってたのはタカシで、私には関係ない」
「冷たいこと言うね、あんなに仲がよさそうなのに。……わかった、じゃあ早く借りを返しとこうか。借りたままっていうのは、基本的に好きじゃないんでね」
あっさりそう言われて、私の気持ちが更に落ちて行く。先生に貸しがあったら、他の生徒よりも先生とつながっていられるような気がしたのに。……ああ、駄目だ。こんな所が子供だって言うんだ。
それは心の中で思ったことで先生に聞こえているはずもないのに、私は自分が恥ずかしくなって、そんな思いを打ち消すようにかぶりを振った。
「それで? どうしたら返せるのかな」
そんな私とは対照的に、腕組みをしてゆるく微笑んだ先生。先生の表情に、動作に。私の心臓がいちいち反応して煩い。
浮かんだのは、ついさっき生まれた、いやそれよりもずっと前からあったかもしれない、私の中のひとつの望み。
彼を知りたい。彼の心が欲しい。だから私の気持ちを打ち明けたい。でもそれを考えたのは、一瞬。決して言ってはいけないんだ。目の前にいる彼は、センセイなのだから。
少し勇気を出してその目をまっすぐ見てみると、長いまつげに縁取られた澄んだ瞳が、簡単に私を捕らえた。
近くで見ると、彼がきれいだということを実感させられる。すっと通った鼻筋、形の整った唇、綺麗な弧を描く眉。どこをとっても、端整な顔立ち。こんなにきれいで魅力的な男の人を、私は先生以外に見たことがない。
「一日、私に。――先生の時間を一日分、私に下さい」
速いリズムで動いている自分の心臓の鼓動を感じながら、私は乾いた声でやっと、そう言った。