第九章 “Don't Take Distance”〔5〕
熱に支配されて、私はどこかおかしくなってしまったのかもしれない。揺らめいている先生の瞳が怖くもあるのに、それ以上の愛しさが増すばかりで。
「先生、」
その指先で目をそらすことを封じられた私は、捕らわれたまま かすれた声で彼の代名詞を呼ぶ。至近距離で、何も言わないまま その瞳で、何かと問い返す先生。その目線だけの親密なやり取りが、私の心をさらにかき乱していく。
「先生こそ、何を、考えているんですか」
棒読みのようになりながらも、一言一言慎重に、言葉を投げかけてみる。知りたかった。再び突き当たった、有り得ない可能性のこと。先生の気持ちが、私に向いているかもしれない、と。だから今、先生の心の中が――何を考えているのかが、どうしても知りたかった。
眼前の先生は、私の目を見つめたまま、しばし黙った。そうして間をおいてから、彼はゆっくりとした声音で私の質問に答えた。
「知りたいなら、教えてもいいよ。君に覚悟があるならね……」
……覚悟? 何の覚悟だって言うんだろう。
もう逃げないと判断したのか、先生の指先は私の顎を開放した。この状況で、私が彼の心の内を探るはずなのに、先生のほうが私を探るように見ている。
言葉を見つけられず、私は視線を捕らわれたまま反応に迷う。――と、その時だった。ソファの近くに置いていた私の鞄の中から、小さな音が聞こえてきたのだ。
すぐにわかった。私のスマートフォンのバイブレーションだ。そんなに大きな音じゃなかったけど、過敏になっていた私の耳は、その小さな音も拾ってしまったようだった。
ざわりと騒ぎ出す心に、先生の部屋にいるという状況が追いうちをかける。まさか、タカシ? ううん、そんなはずはない、見られていないはずだ。だけど図書室の件も、知らないうちに見られていた。
もし、今回もまた、ばれてしまっていたとしたら。そしてマンションに入る場面を、撮られていたとしたら――。気が気じゃない私は、どうしてもスマートフォンをチェックしないといけなくなってしまった。
「あの、スマホを見てもいいですか?」
焦っていた私は、少しの遠慮もなく彼に問いかける。先生はちらと背後の私の鞄に目を遣ったけど、すぐにどうでもいいとばかり視線を戻した。
「放っておけばいい……」
「……、そうはいきません、急用かもしれませんから」
言って、無理やり視線をはがし、私は彼の腕の下から抜け出そうとした。
――瞬間、先生が私の手首を掴み、私の動きを阻んだ。そうして先生は私の手首を掴んだまま、同じ大きな手のひらで、器用に私の反対の手も取る。捕らわれた私の両手は 頭の上でまとめられ、壁に縫いつけられていく。
それは、理解が追いつかないほど、あっという間の出来事。先生は片手だけで、私の動きを いとも簡単に封じてしまった。元通りに 壁を背にした私の眼前で、私の両手を拘束したまま、先生は静かに私を見下ろしていた。
「そういう態度は、あまり感心しないな。どうやら君には、一からしっかりと教える必要があるようだ……」
これ以上ないほど甘い先生の声に、聴覚を刺激される。わけのわからない中、展開にとり残され気味だった私は、そこでなんとか状況を把握した。
先生は、別に強い力で私の手を握っているわけじゃない。やんわりとした握力は、おそらく振りほどくのも たやすい。私が逃げようと思えば、抵抗すれば、簡単に逃げられるように……。
強引なようでいて、限りなく私に甘い彼に、背筋が震えた。両手を挙げさせられ拘束された状態に、あえて甘んじている自分。背筋と同じに、唇が震える。かっとなった頬が火照り、あからさまに赤くなっていくのが、自分でもわかった。
「あ、の……」
それだけ声を出すのがやっとだった。泳ぐ私の視線は、逃げるように彼の手の中のオレンジ色に向けられる。こんな切羽詰まった状況にあるのに、オレンジ色のゆっくり揺れる様は はじめと全く変わっていない。
私ならば落としてしまいそうなものを、先生はずっとグラスを片手に持ったまま。どこかに置こうともしない彼の余裕に、私との差を思い知らされる。
「……神島。さっき教えた通りに、顔を上げてごらん。できるだろう?」
呼ばれた瞬間、刹那に駆け抜ける感情。そんな声で、私を呼ばないで……。魔法にかけられたように。私は、彼の言いなりになるしかなかった。
視線も、両手すらも彼にとらわれて、身動きすらできない。抵抗を自ら奪われたまま、やがて降りてくる彼の唇。
先生になら、このまま従順な生徒でいても構わないと。そんな自分の気持ちと、タカシの不機嫌な顔とが、心の中で入り乱れて。混乱を深めた私は、思わず顔をそむけ、ぎゅっと必死に目をつむった。