第九章 “Don't Take Distance”〔4〕
背後には壁、眼前には先生。ひたすらに息を詰める私。こんな風に追い詰められたような状況を、何度か経験したことがある。けれども今まで以上に心の戸惑いが大きいのは、先生の家にいるという、どこか現実的でない状況のせいだろうか。
驚くほどまっすぐに、私を映している先生の瞳。対照的に、揺れ動く私の目線。直視し続けることなんて、できるはずがない。
――“教えてやっても、いいよ? 例え君が、物分かりの悪い生徒でもね……”
先生の貴重な頬笑みと、どこか甘やかすような声音。教えてやる、なんてセンセイらしい台詞を、センセイらしくない言い方で告げられて。動揺をそのまま表し、じわりとした自分の心臓の鼓動が聞こえる。
私の心の奥には、熱に浮かされた自分が潜んでいる――。それが私の戸惑いを、さらに深く大きくしていた。
ごくりと唾を飲み込んで、私は思わず逃げるように視線を下げる。そうしてしまってから、慌てて視線を戻そうと努力した。“人と話すときは、きちんと相手の目を見る”。さっきの先生の言いつけは、すでに私を支配している。
意志の外側で、小刻みに左右に揺れてしまう、私の目。一挙一動、すべてを観察されているようで、どうにも普通で居られなかった。
「さっきから全く落ち着かないね、君は……」
結局また床を見つめていた私の頭の上から、先生の声が降ってきた。あきれているような台詞。でもその声音は、私の背筋に甘い痺れを絶えず送ってくる。
「ほら、今言ったばかりだろう。怖がらずに、ちゃんと俺を見てごらん」
ゆっくりとした低いトーンの声が、私の耳をくすぐっていく。彼がセンセイだからだろうか、教え込まれていく感覚だった。できない生徒を咎めるわけでも、放置して先に進むわけでもなくて。丁寧に優しい説明で、理解を促されているようで。
授業で適当に英語の説明をする時よりも、はるかに易しい教え方。声を出そうにも、唇をわずかに動かすだけでも気取られそうだった。言われるままに、私はおずおずと視線を上げる。
「そう……いい子だ」
すぐに目が合った私に、先生が相変わらずの声音で告げた。罠にはまり込んでいく。抜け出せなくなっていく。けれども逃げる気はない。飲み込まれそうなのに、踏み込みたくなるのだ。怖いくらいに深い光を宿しているのに、惹かれて止まない。
やっぱり、似ている。車から見た、深い深い、底の見えない夜の海に。
ふと、先生が壁に当てていた手を引き、その手で私の頬に手を当てる。触れた瞬間、びくりとする私。どうしてだろう、いつも先生はその指先で私に触れたがる。
「可哀想に……怯えているのか?」
そんなことを言いながら、先生はふっと鼻で笑った。可哀想だなんてうわべの言葉、実際はその心に思ってもいないんだろう。さっきから、落ち着き払っているように見える先生。“感情的”なわけではない、だけど限りなくそれに近い行動。
考えてみれば、あのキャンプファイヤーの夜から始まったのだ。どこか感情をぶつけるような、冷静な彼らしくない、一方的なこんな行動。そしてそれとは対照的な、稀に見るほどの優しさも、彼は私に見せるようになった。
ふと、頬にあった先生の指先が、私の頬から首筋にかけて動き出した。そうしてまた頬に戻ってきて、同じことを繰り返す。首筋をそっとなぞられるたび、背筋に駆け抜けていく知らない感覚。もはやぎりぎりを超えた心理状態だった。視界に映るすべてが、見えなくなっていく。
この状況において余裕なんてないはずなのに、私はなぜか、いつかのユキとの雑談を思い出していた。
あれは確か、まだ先生のことを好きだと自覚する前。いつも通りの昼休み、彼氏のことを話すユキと黙って聞く私。あの時、ユキは彼氏が人前でベタベタすることに怒っていて、そしてこう漏らしていた。
――“男ってさ。好きな女には、必要以上に触りたがるじゃない?”
その台詞を思い出した瞬間、私ははっとした。焦らすように私を翻弄する 先生の指先を、より一層意識してしまう。いつかも思い当たった、ありえないような可能性。だけどもし、奇跡的にそうだったとしても――先生が私のことを、気にしていたとしても、だ。
私は突き放したのだ。あの夜、キャンプファイヤーが消えた後。愚かな子供じみた言い訳で、先生に軽蔑されたはずだ――
「……何を考えている?」
ふと降ってきた先生の声により、考える力を一瞬にして奪われる。先生の指先に顎を持ち上げられて、直後、交差する視線。すぐさま私は、その深い瞳に吸い込まれそうになる。
「君は本当に、飲み込みが悪いね? 目を逸らしたら駄目だろう……」
相変わらずの教え諭すような 彼の甘やかな声に、支配されていく私。そんな生徒を前にした彼の瞳には、まだ揺らめきが消えないまま宿されていた。