第九章 “Don't Take Distance”〔3〕
先生の自宅は、私の家とは反対方向だった。
少し長めのドライブの後、先生はマンションの駐車場に車を停めた。車を降りマイペースに足を運ぶ先生に、黙ってついていく私。
駐車場から出るのにも、周りの目が気になって仕方がなかった。恐れからか、無意識のうちに、先生から少し距離をとっている。誰かに見られたら一巻の終わりなのだ。絶対に見つかってはいけない。
私はびくびくしながら、先生の後に続いてエレベーターに乗り込む。対して平然とした先生は、何でもない表情でエレベーターのボタンを押している。
ゆっくりとした動作で、ようやく完全に閉まるエレベーターのドア。誰にも見られることがなくなり、びくびくしていた私は少し安堵する。
けれども狭い空間に二人だけになったことに気付き、今度は動揺する私。至近距離で、端正な横顔の彼の目は、一つずつ上がっていく階の表示を、何気なく追っているようだった。
しっかりしなくては。これから彼の部屋に行くっていうのに。そう思いつつ、彼の部屋に行く、なんて恋人のような響きに酔いしれる。
彼は相変わらず平然としているのに、私の頭の中は忙しいばかり。しかもエレベーターに乗っている時間は、思ったより長めだった。部屋の前にたどり着くころには、私は少し疲れてしまっていた。
カギを開けて、先生は部屋に入っていく。遠慮から一瞬ためらったけど、私も思い切って足を踏み入れた。
一人暮らしにしては広い部屋だった。そして散らかっているというわけはなく、綺麗に片付いている。すっきりとしたインテリア。予想を裏切らず、月原先生の部屋は、月原先生らしい部屋だった。
部屋の隅に二つある本棚には、難しそうな英語の本がずらりと並んでいる。読みかけだろうか、ソファーのあたりに無造作に伏せてある本の背にもまた、難しそうな英語の題名が記されていた。そうやってある程度部屋を眺めた後、靴と濡れた靴下を脱いで上がったはいいけど、私はどうしていいかわからなくなっていた。
濡れた制服では座ることもできず、私は仕方なく立ち尽くす。先生はそんな私を放置したまま、扉の向こうに消えていった。しばらくして、シャワーのような音が聞こえてくる。
ああ、先生も雨に濡れていたから、シャワーを浴びているのか。先生にはまだ仕事があるんだから、濡れたままじゃいけない、それも当然か。なんて、そんなことをぼんやりと考えつつ、しつこく立ち尽くす私。シャワーを終えた後のドライヤーの音が聞こえて、数分後に彼は戻ってきた。
スーツでもワイシャツでもない、風呂上がりのラフな格好にどきりとする。まだ少し濡れている髪が額にかかり、肩にかけられたタオルが、妙に彼の色気を引き立てている。まだ突っ立っている私を一瞥した後、先生がふと言葉を漏らした。
「……寝るか?」
彼の言葉の意味を、上手く飲み込むことができなかった。一瞬のうちに、私の頭をいろんな考えが駆け巡る。
寝る? どうして突然そんなことを? どういう話の流れでそんなことを? 寝るって、まさか先生のベッドで……?
そこまで思考が至ったところで、急激に熱を上げる私。緊張がピークに達した。どういう意味!? と何度も頭の中で叫ぶ。その手のことに疎い私だけれど、そこまで子供じゃないのだ。彼の言葉の意味を、深く考えてしまっている。
ストイックな彼を前にして、何を考えているの、私は。一緒に、なんて言われたわけでもないのに。だけど、月原先生の部屋で、私がひとりで寝る理由なんてないはずだ。
熱に浮かされていく私。もはや思考は正常でない。けれどもそんな私とは、やっぱり温度差のある彼である。
「ああ、君は病人じゃなかったね」
ふっと息を吐き出すように小さく笑い、先生は少し面白そうに言った。余韻で、まだ収まりきれない私の心臓が、バクバク言っている。
気のせいだろうか。わざと戸惑う私を からかっているようにも聞こえた。思いついたような言い方だったけど、しらじらしいことこの上ないのだ。
生徒をからかうなんて、彼はそんなタイプじゃないのだけれど。彼が無意識でも翻弄されてしまうのに、意識的に翻弄するのはやめてほしい。
首にかけたタオルを片手で持って、彼は無造作に髪を拭く。その仕草もやっぱり色気があって、さっきから心臓が休む暇がない。
キッチンに入っていった先生は、グラスを持って戻ってきた。グラスの中に、鮮やかなオレンジ色が揺れている。ジュースだろうか。彼がそんなものを飲むなんて、意外だった。イメージの中では、ブラックのコーヒーか紅茶、といったところか。
私の視線を感じたのか、一口飲んでから 先生は私をちらと見て言った。
「飲むなら、持って来ようか」
「いいえ、結構です」
目を伏せながら、私は遠慮なくはっきりと断りを入れる。さっきから私は緊張でぎりぎりなのだ。のんきにジュースなんて飲む余裕はない。
「君もシャワーを使うといい。俺のでよければ、服も貸そう」
「い、いいえ……結構です」
先生の気遣いであろう申し出を、またも私は目を伏せたまま断った。シャワーのあと服を借りる。そんな親密なような行為が、妙に恥ずかしかった。それに迷惑をかけ続けているのだ。すでに部屋まで押し掛けている。シャワーの上に服まで借りるなんて、そんな真似できるはずがない。
だけど服を借りなければシャワーの後着るものがない。シャワーを借りなければ、濡れた制服で座ることもできない。この状況をどうしていいかわからない。もうどうしようもなかった。
立ち尽くすだけ立ち尽くして、私は一体何がしたいんだろう。まるで、我儘で聞き分けのない 小さな子供のような態度だ。
心臓の鼓動と緊張を抱えきれず、無駄に床を見つめる私。最近先生の前で、私はこんなことばかりしている。すると、私の態度に気を悪くしたのかどうかはわからないけれど、先生が静かに近寄ってくる気配を見せた。
「人と話すときは、きちんと相手の目を見る……そう習わなかったか?」
頭の上からの落ち着いた声音に、気を悪くした様子は感じ取れなかった。それどころか、やっぱり彼の声は、甘やかな 注意のようで……。
わずかに視線を上げると、彼の手の中で揺れるオレンジ色が見えた。至近距離にあるのに、オレンジ色はさらに近づいて来る。ぶつかりそうになり、後ずさりする私。後ずさるたび、また近づいてくるオレンジ色。そういうやり取りを繰り返し、ついに 壁にぶつかる私の背中。
顔の横に片手を突かれた私は、彼の瞳を見上げることを余儀なくされた。早鐘のような心臓の鼓動の、向こう側で。彼が、わずかに微笑んだ。
「教えてやっても、いいよ? 例え君が、物分かりの悪い生徒でもね……」
口角を釣り上げるように笑った彼の笑みには、少しの陰りと、そして。いつかと同じ ゆらりとした彼の瞳は、ろうそくの火のように揺らめいていた。