第九章 “Don't Take Distance”〔2〕
ひっそりとしたような静かな雨は、いまだ降り続けていた。
見慣れた 自分の家の玄関先で、屋根の上の小さな雨の音を聞いている。それは雨の日の 日常的な光景だけれど、先生がそこに居るというだけで、易々と非日常的なものに変わる。そうして、彼の残したさっきの台詞。どうにも違和感のある展開だった。
先生は、私を送り届けたことで義務を果たしている。カギを忘れたなんて言うのは私の落ち度であって、先生には関係のない話だ。だから先生には何の責任もなければ、私を部屋に招き入れるなんて必要はないのだ。
一方で、私にとっては願ってもない話だけれど。彼の申し出を受け入れなければ、私は夜まで、濡れたまま締め出しを食らうことになる。
それに、永遠に知ることのできないはずだった彼の私生活を、垣間見れるチャンスなのだ。それを眼前にちらつかせられて、私の心が大きく揺れている。
けれどその提案に乗ってしまうのは、あまりに危険だ。生徒がセンセイの家に行くなんて、もってのほか。タカシに見つからないからいいという問題じゃない。リスクは、何もタカシだけじゃないのだ。誰に見つかってもいけない。今回は、見つかったのが たまたまタカシだったというだけだ。
先生のためにも、浅はかな行動をとるわけにはいかない。表情を引き締め、私は断るためにひねり出した言い訳を、なんとか口に上した。
「いえ、大丈夫です。母に連絡したら、すぐに帰ると言っていました」
「いつ連絡した?」
間髪いれず、彼は容赦なく私の言い訳を切り捨てる。下手な嘘は、完全に見通されているようだった。共働きとか帰りが遅いとか、仕事を抜けられないとか。私はバカだ。いちいち余計なことを言わなければよかった。
先生を取り巻くのは、相変わらずの有無を言わせない空気。観念した私は、白状するしかないことを悟り、腹をくくった。
「……本当は、ずる休みなんです。体調なんて悪くないんです。だから平気です……」
細い声で言いながら、うつむき加減になっていた。こんなこと、できるならば言いたくなかったのに。きっと先生には、あきれられてしまうだろう。
でも今はむしろ、そのほうがいいかもしれない。ずる休みだったと知ってあきれたなら、先生も容赦なく、濡れた私を置き去りにできるというものだ。
先生の冷たさに耐えてきた日々は、私を強くしたらしい。瞬時に覚悟するのは、私の得意技になりつつあった。……けれど。
「どちらにしろ、そのままで居させるわけにはいかない」
またも 予想に反して、動じない彼の台詞が、頭の上から降ってきた。私は はっとして先生を見上げた。ずる休みと聞こうとも、全く揺らいでいない様子の彼の瞳。
揺れる心を叱咤する。先生の優しさを利用しちゃだめだ。自分の望みを、想いを必死に排除し、私は少し強気な声を出した。
「私大丈夫です、先生。親に連絡して、どうにか家に戻ってもらいますから。ここで待ちます」
言いながら、私はここを動かないとばかりに 玄関先の階段に座った。そうして少しの笑みを浮かべ、自分の元気さをアピールする。けれども先生のまとう空気は、ほんの少したりとも変わる気配を見せなかった。
「神島」
不意に名前を呼ばれて、背筋に駆け抜けていく甘い震え。牽制するようでいて、駄々をこねる子供に優しく注意するような、どこか甘やかな声……。
いつかと同じような呼び方に、心臓が強く反応を示しはじめる。余裕を完全に失い、私の作り笑いは脆くも崩れ去っていった。
どうしてだろう。こういうとき、いつも彼の視線を意識してしまう。私を映す彼の瞳は、教室での淡白な彼とは、正反対のようで。穏やかじゃいられなくなる。胸が、苦しくなる。
静かに震え続ける心。あっけなく呼び起こされた感情。やわらかな色をやどした彼の瞳から、目が離せなくなっていく。
ふと先生が、座り込んでいる私に 右の手を差し出しながら、
「おいで」
と、短くそれだけ言った。
どこか親密なような、彼の心地良いトーンの声。それは私に、更なる甘い誘惑を仕掛けてくる……。立ち上がるのを促すために、わざわざ手を貸すなんて。やっぱり、小さな子供にするような対応だ。
いつも教室で彼が見せる、突き放すような冷たさとのギャップ。教室では決して見れないその甘さに、私の心は揺れ、愛しい震えを増していく。
頭にちらつく、タカシの不機嫌な顔。早く離れないといけない、頭の中で警告音がそう告げている。けれども、私は彼に逆らえない。彼の手をとったのはきっと――必然的に。
先生に連れられて、再び乗り込んだ静かな車内。向かう先は、彼の家。車は、私の知らない道を辿っていた。