第九章 “Don't Take Distance”〔1〕
車内は、以前と変わらず無音の空間だった。窓を雨が伝っていく。その幾筋もの水のヴェールをなんとなく見つめながら、感情を持て余していた。
第九章 “Don't Take Distance”
手のハンドタオルで、まだ少し残っていた腕の水滴を吸い取ってみる。さっきから先生は無言だ。……それも、いつも通りのことだけれど。
「すいません。いつも迷惑をかけてばかりで……」
「別に気にする必要はないよ。君は何も心配しなくていい……」
遠慮がちな私の台詞に、運転しながらも やっぱりどこか優しげな台詞を返す先生。“らしくないです、先生”……そんな言葉を出さずに飲み込んだ。
感情の赴くままに、私は彼の横顔を見つめる。何も心配しなくていい、なんて。まるで頼りきってしまいそうなその言葉に、胸がきゅっとする。
「さっきも言っていたけど、ご両親はいらっしゃらないのかな」
前を向いたまま、ふと思いついたように、先生が言った。そういうことを気にするところが、やっぱり“センセイ”だ。
「両親は共働きですから……今日も仕事に出ていて、帰りも遅いです」
それだけ答えて、私は再び窓の外に視線を戻す。両親は多忙で、勤務も不規則だからなかなか家に居ない。そういえば前に送ってもらった時も、先生は 親に挨拶するとか言っていたっけ。
同じ車内で、思い出すあの夜。あの時も雨が降っていた。窓を打ち続けていた雨は、今よりもずっと激しくて。けれどもその雨音の中、ウインカーのノイズとともに、私の脳裏に確かな衝撃を残した、先生の台詞。
――“このまま君を、連れて帰ってしまおうかな”――
あのときあの瞬間を、何度も思い出しては胸を震わせた。らしくもない冗談。陰りある笑みに、惹きつけられるようだった。先生との時間を手放して、帰りたくなんてない。いっそこのまま、連れて帰って欲しいのに。
けれどもそれは絶対にできない。私は生徒なのだ。彼がどんな部屋で生活して、どんな本を読んでいるかとか。先生の私生活を知りたかったけれど、私が生徒である限り、今後一切 知ることはできないだろう。
少し乾いてさっきよりはましになったけれど、制服はまだ冷たい。乗り込む前に、ハンドタオルでずいぶん拭いたつもりだけれど、先生の車が濡れてしまっていないか気がかりだった。
ふと、鼻がむずむずしてきた。くしゃみが出そうだった。先生の前でくしゃみなんてしたくない。懸命に我慢したけれど、努力の甲斐なく くしゃみは出て行った。慌てて口を抑えるが後の祭りだ。しっかりと聞いたらしい先生が、ちらとわたしに視線をよこした。
けれどそれも一瞬のことで、彼はマイペースに運転に集中する。彼の淡白な無関心さが、この時ばかりは救いだった。
そうして貴重な時間は、あっさりと終わりを告げることになる。前回降りた、家の近くの路地までたどり着いてしまったのだ。あきらめの境地で、定型文のようなお礼を告げ、私は車を降りようとした。けれども先生は、なぜか車を止めようとはしなかった。
「家の目の前まで送るから、案内して」
手短にそう告げる先生。迷惑になることは分かっていたし、そこまでしてもらおうなんて思っていなかったから、私は戸惑った。
「でも……、この周辺は入り組んでいて、入ったら出るのが大変なんです」
「君は何も心配しなくていい、と言っただろう?」
先生の言い聞かせるような声音は、私の言うことなんて構いもしないとばかりだ。有無を言わさない先生の雰囲気に、呑まれてしまう。シートベルトを外し降りる準備をしていた私だけれど、結局は道案内を再開した。
数分にも満たないうちに、車は家の門の前まで到達する。先生が車を停めたので、私は今度こそドアを開けて車を降りた。すぐに発車していくかと思ったら、先生は車を止めたまま、車内から私の様子をうかがっているようだった。家に入るまで、私を見届けていくつもりだろうか。
やっぱり変だ。まるで“センセイ”らしくて、先生らしくない。
家のドアを開けようとする私だけれど、鞄を探ってみると、大変なことに気付いた。最悪だ。よりにもよってこんな時に、家のカギを忘れてきたようだ。今夜、両親は一体何時に帰るだろう。とにかく思わしくない状況だった。
まだ先生の車は近くに停まっている。何とかしなくてはいけない。彼は私を見ているのだ。焦りながらも途方に暮れて、もたもたしていると、とうとう車のドアが開け閉めされる音が聞こえてきた。
程なくして、彼がこちらに到達する。私の焦りはピークに達した。ドアの前で立ち尽くす私に、先生の表情が 少し怪訝な色を示す。
「どうして家に入らない?」
「いえ、あの……。……カギを、忘れてしまって」
上手くごまかすことのできない私は、正直に話してしまった。私の言葉を受け取って、彼は少し、考えるような表情をした。そうして驚くべき言葉を発する。
「……俺の家に居るか?」
「えっ!?」
驚いた私は、過剰なまでに大きな声で反応してしまった。そんな私とは対照的に落ち着いたままの先生が、言葉を続ける。
「濡れたままで外に居たら、余計に体調が悪くなるだろう。俺は仕事に戻るが、部屋は好きに使っていい……仕事から帰ったら、また家まで送ろう」
驚きは深まる一方だった。先生は一体、どうしたというんだろう。ただの生徒の私に、どうしてそこまで。どう反応を示していいかわからず、戸惑いの中、私は思慮をめぐらせていた。