表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/105

第八章 “Hope And Pray”〔7〕




 彼の瞳は、逸れることなく私を映し続けている。先生の瞳に映ることがどれほど難しいか、私は知っていた。淀みのないそのまなざしに、吸いこまれそうになっていく。


 いまだ空気にさらされたままの私の額に、やがて彼の手のひらが、横向きに当てられる。私の静かな衝撃は、降り注ぐ雨にかき消されていった。彼は一体何がしたいのか。まるで、子供の熱を測っているかのよう。


 戸惑いを隠しきれない私は、額に手をのせられたまま、おずおずとした目線を先生に向けた。


「あ、あの……」

「体調が悪いんじゃなかったのか? こんなに濡れたら、余計に悪くなるだろう……」


 彼の口からの予想外の言葉に、私は今度は驚いてしまった。さっきから感情が目まぐるしく変化しすぎて、自分でもついていけない。まさか聞いていたのだろうか。私と担任の会話を。かたくなな心で、誰にも関心を示さない人なのに。


 まるで、私のことを心配しているかのような台詞。昨日のことがあったのに、冷たくなるどころか、以前よりも優しいなんて。どうしてなの。……こんなの、変だ。生徒にはつめたくて冷めきった態度をとるはずの、“月原センセイ”らしくないじゃないか。


「神島、ついてきて」


 短く告げて、彼は踵を返す。解放された額がどこか寂しい。一瞬の迷いの後、やっぱり彼に逆らえない私は、地面に投げだしてあった自分の鞄を ひったくるように掴み、彼の後を追って動き出した。


 先生が向かった先は、意外にも職員室だった。一日に何度も職員室に来る羽目になるなんて。月原先生の足取りは、どうやら担任に向かっていく。嫌な予感がし始めていた。


 担任のデスクまで歩いていく月原先生と、ついていく私。何やらデスクで仕事をしていたらしい担任が、背後までやってきた私と月原先生を振り向いた。そしてびしょ濡れになった私を認識するや否や、目を丸くした担任は大きな声を出した。


「神島!? どうした、そんなになって……傘は」

「持っていなかったそうです。濡れながら帰っていたのを見かけまして、引き留めました……」


 担任の言葉を途中で拾い、月原先生が表情を変えないまま、淡々とした声で告げた。さすがだ。旧校舎でのことは上手く隠し、ごまかしてしまった。月原先生も少し濡れているのだけど、雨の中私を追いかけた、ということならその説明もつく。その違和感のない言い訳に、やっぱり年の割には単純な担任は、簡単に納得してしまったようだった。


 もう固定されたような眉間のしわを、担任はさらに深くする。そして考え込むような仕草をしながら、担任は口を開いた。


「しかしなぁ……そのままじゃあ帰れないだろう。仕様がないな、ご両親に連絡を」

「いえ。両親は仕事を抜けられないので、このまま帰ります」


 担任の言葉をすっぱりと切って、私は揺るぎない声で言った。両親に連絡されても困るのだ。その上仮病なのだし、自分で帰る他はない。


「しかしだな……」

「大丈夫です。……帰りますので、失礼します」


 引き下がらない様子の担任に、それだけ言い捨てて私は踵を返した。月原先生の横をすり抜ける瞬間、彼が私を見た気がした。


 性懲りもなく、どきりとする自分の鼓動を押し込める。まだ背後から、引き留めようとする担任の声が飛んで来ていたけれど、振り向かないまま職員室を出た。必要以上に強がったのは、横に月原先生がいたからだろうか。手のかかる生徒――そんな風に思われたくなかったのかもしれない。


 濡れた髪の毛のせいか、頭がやけに重たい。もう今は、何も考えたくはなかった。旧校舎で奇跡的な優しさを見せた彼だけれど、よくよく考えれば、結局私を担任に引き渡しただけじゃないか。


 秘密を共有した、共犯者だとばかり思っていたのに。彼のことだ、厄介払いしたかったのかもしれない。もやもやし始める心を持て余し、少し早歩きで、私は一刻も早く校舎から出ようとしていた。


 けれども靴箱に差し掛かろうというところで、背後から肩を掴まれる。振り向いた瞬間、私は必然的に息をのんでしまった。私を引き留めたのは、旧校舎での、私の“共犯者のはずだった人”だった。


「頼まれたんだ。君を送ってやって欲しいとね。内藤先生は、今から授業だそうだから」


 私が何か問う前に、月原先生は相変わらずの無表情でそう説明した。けれどおかしい。先生だって授業があるんじゃないだろうか。


「先生は、授業は……?」

「俺は今日は、最終の授業だけだ。今から送って戻れば、余裕もある……車を回してくるから、玄関で待っていて」


 そう言ったかと思うと、もう先生は駐車場に向かっていく。最終の授業――私のクラスだ。私が受けるはずだった授業。先生の後ろ姿を見つめながら、私は考え込んでいた。


 彼の授業は最終だけ、だから私を送れるのも彼だけ。それでつじつまは合う。つじつまは合うけど……やっぱりおかしいのだ。この前も送ってもらったのだし、あの責任感の強い担任が、そう何度も月原先生に頼むだろうか?

 

 まさかこの前のように、月原先生が自ら、私を送ると名乗り出たとか……。それならば担任も頼みやすかっただろうし、有り得ない話じゃない。けれども自分でそう考えておいて、私はすぐさま、有り得ないと否定する。


 この前は、月原先生は駅の近くに用事があったというし。それに仕事も終わっていた。先生は担任の仕事を手伝わされていたようだったし、帰る口実に私を使ったって可能性もある。今日は、この前とはわけが違うのだ。先生が、私を送って戻るなんて面倒を、わざわざ自分から買って出る理由がない。


 きっと月原先生の言ったとおり、担任に頼まれただけなんだろう。担任は自分の授業があって、頼むしかなかったのかもしれないし。先生は担任の後輩だ、頼まれたら断れないのだ。


 そんな風に考え込んでいるうちに、靴箱の向こう側に先生の車が到着してしまった。


 私は“体調が悪くて”、ただ“送ってもらうだけ”だ。担任も公認だし、大丈夫だ。生徒として、違和感のない行動だ。そう再確認した後、私は靴を履き替え、先生の車に乗り込むべく玄関を出た。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ