表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/105

第八章 “Hope And Pray”〔6〕



 雨はしとしとと降り注ぐ。旧校舎に広がる雨のにおい。彼を避けるために、わざわざ授業までさぼったのに。どうしてこんなことになっているんだろう。


 先生は濡れた私の横を通り過ぎて行き、壁に背中を預けた。屋根の下に入ったことで、彼は雨から守られる。どんな時でも調子を崩さない。先生はあくまでマイペースだ。ポケットからたばこを取り出すのも、いつもの動作そのまま。


 この場を去れば、先生との関わりを簡単に断つことができる。昨日決死の思いで突き放したのだし、私はすぐにでもこの場を去るべきだ。わかっているのに動き出せないのは、タカシが今授業を受けているはずで、なおかつこの場には決して誰も来ないことを知っているからだろうか。もう好きじゃないと宣言したのなら、それを貫き通すべきなのに。


 さっき雨の下を歩いたからか、彼のワイシャツの肩は少し濡れている。けれど気にした様子もない彼の指先が、ライターを操り、やがてたばこに火がともされた。そんな様子を、私はいまだ雨の下にさらされながら、ぼんやりと見ている。


 この状況をまずいと思う気持ちは、どこか人ごとのことのよう。まだ私の心は、雨に動きを奪われているのだろうか。


 彼の指先から、ひとすじ、細く立ち上る煙が見える。それは屋根の下から飛び出そうとして 雨にかき消されていく。ゆらゆら揺れて気まぐれに消えるそれは、彼のようでもあった。


 ふと、煙の隙間から先生が私を見た。 どきりとする。職員室で私を見ていた時と同じ、彼の無表情。


 昨日の今日だ。子供だと侮った軽蔑の色が、その瞳に浮かんでいないか 探してみたけれど、そんなものはどこにも見つからなかった。その無表情の下で、一体何を考えているんだろう。先生の心の内はやっぱり、頑張っても全く読めない。


 先生から目が離せないまま、私はまた、静かに心を乱し始めていた。この場所は、先生との思い出が多すぎるのだ。しかもそのどれもが、心臓に悪いものばかり。ここに彼と二人で居るというだけで、穏やかではいられない。


 そして昨日、私は軽蔑されて当然なことを言った。もう彼の瞳に、私が映ることはないと思っていたのだ。なのにこの場所にまた、先生と二人きりで居る……そして先生は軽蔑するわけでもなく、静かに私を見ている。


 隣の校舎では、今まさに授業があっているのだ。先生はこの時間、授業がなかったのかもしれない。職員室を抜け出す口実なんて、彼にすれば簡単だったんだろう。


 けれど私は違う。早退しないのなら、授業に参加しなければいけない。それなのにここにいるなんて、“いけないこと”だ。そして先生も、仕事をさぼってたばこを吸い、“いけないこと”をしている。


 彼と私は今、同じ場所で見つかってはならないことをし、そしてお互いに黙認し合っている。まさに、“同罪”――……その共犯者のような感覚は、昨夜の図書室を彷彿とさせた。


 秘密の空間で 彼を近くに感じた、あの時にひどく似ているのだ。そこに思い至った瞬間、彼の瞳に映し出されていることを、急に意識してしまった。背筋がぞくりとするような甘い痺れを思い出しそうになり、私は心の中でかぶりを振った。


 勝手にペースを上げていく、私の心臓の鼓動。支配されている。彼は意識せずとも、私をたやすく支配し続ける。濡れた髪の毛が肩にかかっているのが気持ち悪い。そっと手で払うと、束になった髪の毛がぱさりと音を立てた。


 すると先生は、ふとしたように 少しだけ表情を動かした。そして吸いかけのたばこを地面に落とし、それを足で軽く踏む。湿った地面の砂が じゃり、と音を立てるのが、雨の中に小さく聞こえた。


「前もそうだった。……君はいつも、雨に濡れたがるのかな」


 そう言って、珍しくも 彼は面白そうに小さく笑った。そしてその足を動かし、先生はついに屋根の下から出た。しとしととした穏やかな雨の水滴が、私と同じに彼を襲う。けれどもやっぱり気にしない様子の彼の足は、迷いなく私を目指している。


 濡れた砂を踏む静かな音が、数回。そして先生は、すぐに私の眼前に到達した。動けないのは、雨で重い制服のせいじゃない……。


 伸ばされた彼の手が、私に近づいてくる。私が微動だにしないまま、先生の手は私の額に当てられた。触れた瞬間、ぴくりと反応した私に、気付いているのかいないのか。彼は表情を変えないまま、その指先で、額に張り付いている私の濡れた前髪をそっと払った。


 覆っていたものを取り払われた額は、空気にさらされて、一瞬ひんやりとした。そして直後、触れられたことで逆に、急速に熱を上げていく私。彼の指先は、私の額をかすめただけなのに、妙に恥ずかしかった。


 必要以上に意識してしまうのは、まだ鮮明に覚えている 昨日の彼の指先の熱を、今この場面に重ねて見てしまったからだろうか。昨日と同じように、一瞬だけ触れた先生の手は暖かかった。


 揺れる心を隠せないまま、私は先生を見上げていた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ