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第八章 “Hope And Pray”〔5〕




 夢の一夜が明けて、余韻も残さず、あっけなく現実は戻ってくる。学祭の次の日、散らかった校舎の片づけが授業に組み込まれて。時間をかけて生徒たちが作ったグラウンドのセットが、次々と姿を消す。現実に引き戻されて、生徒たちの表情は、充実感と喪失感とで複雑だ。


 けれど私ほどに抜け殻になっている生徒もいないだろう。涙は枯れるかと思ったけど、一晩中止まらなかった。そして今、私はもう涙も出ないほどに追い詰められている。


 午前中いっぱい、ユキが私を気にかけていたけど、取り繕う余裕もなかった。どうして、学校に来たんだろう。片付けは午前中で終わりで、午後からは普通の授業がある。そして最終の授業は、月原先生の英語だというのに。


 片付けをしている時、ユキが、更木さんが学祭の間に彼氏を作ったと言っていた。その相手は、かっこいいことで有名な長身の先輩。先生のことはあきらめてしまったんだろう。薄っぺらな思い。私の想いを彼女と一緒にしないでほしかった。けれども先生には、同じように思われているかもしれない……


 精神的な落ち込みは、どうやら重症のようだ。昼休み、弁当を食べるのもそこそこに、私は意を決して職員室に向かった。遠慮がちに扉をノックし、失礼しますと言いながら中に入る。


 目当ての担任は、自分のデスクで弁当を食べていた。華やかな色どり。きっと奥さんの手作りだろう。目の前までやってきた私に、担任は何の用かと目で問うてきた。


「体調が悪いんです。だから早退させてください……」


 ためらいがちに、けれど思い切って。私は職員室に入る前から用意していた言葉を告げた。別に体調が悪いわけじゃない。ただ落ち込んでいるだけだけれど、もう学校に居たくはなかった。


 本当っぽく見えるように、勤めて辛そうな表情を意識して。内心では、バレたりしないかと 私は緊張していた。


「わかった。ひとりで帰れるか?」


 けれど意外にも、担任は疑うことなく、あっさりと許可を下した。今まで優等生として、信頼を勝ち取ってきた成果だろう。安心したのと同時に、少し余裕の出た私。こっそり月原先生のデスクに目を向けたけど、彼の姿はなかった。ほっとしたようながっかりしたような、複雑な心境だ。とりあえず私は、眼前の担任の言葉にうなづいてみせた。


「はい、大丈夫です……、っ!」


 言葉の最後のほうで、衝撃を受けた私は思わず息をのんでしまった。背後を通り過ぎていった人物は、昨日私を翻弄したあの人だったのだ。


 ……何を動揺しているのだろう、私は。動揺する必要なんてない。ここは職員室だ。彼が居て当然じゃないか――


「神島……?」


 担任の怪訝な声に、我に返る。視界の先には、自分の足と上履き。どうやら、うつむいて考え込んでしまっていたようだった。なんでもありません、と言おうとして顔を上げた瞬間。目に入ってしまったのは、担任の後方にいる彼の、愛しい瞳――


 少し離れた場所に立って、無表情の彼は なぜかこちらを向いていた。


 ……どうして。どうして私を見ているの。


 昨日の今日で、心に走る耐えがたい動揺。失礼します、と急いで告げて、私は早歩きで職員室を出る。そして教室に戻り、早急に鞄に荷物を詰め込んだ。何事かと寄ってきたユキに、「早退」と一言だけ告げて。そんな一連の動作を連続して片づけ、私は教室を飛び出した。


 靴箱にたどり着いた瞬間、チャイムが鳴った。昼休みが終えた今、生徒は一人も見当たらない。授業に出ているのでそれも当然の話だけれど。


 授業をさぼるなんて初めてだ。ずる休みもしたことがないのだ。靴箱から見えた玄関の外は、雨が降り始めているようだった。予報にもなかったのに。傘なんて持ってきていない。うんざりした私はそのまま帰る気にもなれず、鞄を持ったまま踵を返した。


 馬鹿の一つ覚えのように。私が向かう先は決まっていた。誰もいない、見つからない、そしてどこよりも特別な場所。旧校舎、たばこを吸っている先生を見つけた体育館裏――たどり着いたそこは、相変わらずひっそりとしていた。


 吹きさらしのこの場所だけれど、壁に寄れば、かろうじて人ひとりくらいは雨から守ってくれる 短い屋根はある。その屋根のかかった 濡れない場所に鞄だけ置いて、私はそのまま雨宿りをやめた。


 屋根の下から出た瞬間、雨はゆっくりと確実に私を濡らしていく。わざわざ自分から濡れに行くなんて、私は何をしているんだろう。やがてあの雨の夜と同じくらい、私は濡れてしまっていた。


 ――そうだ、私は思い出したいのかもしれない。追い求めている。先生に送ってもらった、あの雨の夜を。車の中、先生の瞳に感じた違和感と、らしくない台詞。差し出された傘に、至近距離の彼の瞳。濡れた私の頬をぬぐった、彼の指先。


 切なく、なる。記憶をたどるだけじゃ足りない。今、彼に会いたい――


 ふと、背後に人の気配を感じた。誰だろうか。誰だとしても、見つかったらまずい状況だった。授業をさぼっておいてこんな場所にいるのだ。だからこれは、私にとって焦るべき事態なのに。雨は私の髪や服を濡らして重くしただけでなく、心の動きまで鈍らせていたらしい。


 妙に落ち着いた私の気持ちは、揺れ動きもしない。緩慢な動作で、私はゆっくりと背後を振り向く。けれどそこに立っていた人物を認識して、私は濡れたまま目を細めた。


「先生……」 

「もう予約済みだよ、この場所は。悪いけど使わせてもらう……」


 私の姿に特に驚いた様子も見せない、月原先生の静かな声が、雨の旧校舎に吸い込まれていった。




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