第八章 “Hope And Pray”〔4〕
肩に触れているだけでも、信じられないくらいに緊張する。
どうしても好きだ。愛しくて、切なくて、どうにかなってしまいそう。感情のままに、彼を抱き寄せて、その胸に顔をうずめてしまいたかった。泣きたくなるようなこの感情に、戸惑いながらも身を任せたい。
でも、だからこそ。彼のくれた優しさと同じように。つめたいふりをした彼の優しさを、私が彼に返す時だ。生徒であることは、最初から課せられた私の義務だったのだから。
――“二度と近づくな――”
重くのしかかる呪縛は、解けることはない。そうだ。これ以上、リスクを冒すわけにはいかない――そう思うと同時に、私の両手は、強い力で先生の肩を押し戻していた。ふとしたように私を見る彼の瞳にまた、不安定な揺らめきを見た。
私の腕の長さだけの距離が、私と先生の間に生まれる。離れて行った彼の手。それがこんなに、――苦しいなんて。
「……もう、好きじゃない。先生は大人で、遠すぎて……背伸びするのに疲れてしまったんです」
夜の校舎に小さく消えていった、私の儚い宣言。迷いを帯びた感情を、悟られないように隠し通して。この嘘を真実として貫き通すことこそが、私の使命だ。
やっぱり、先生を直視し続けることなんてできなかった。結局 顔を地面にばかり向けて、私は何がしたいのか。
「君はいつか、俺に質問しに来ただろう。俺の見解が知りたいと……」
ぽつりとした先生の声が、頭の上から下りてきた。
――“人を好きになるのに、大人とか子供とか、関係ありますか?”
あの時、準備室で。挑戦的に問いかけた私の“質問”。私の嘘と、その質問は矛盾している。とても愚かな、幼い矛盾。関係ないと言っておいて、それを理由にして想いを手放す。高校生の恋愛は思い込みだと、彼は言った。私はそれを否定した。それなのに今、偽りの私は彼の言った通りのことをしている。
「……それが、君の出した答えか?」
あくまで静かな彼の声が、容赦なく私に降り注ぐ。ここまできても、彼は私を責めることはない。
――嘘なのに。偽りなのに。本当はこんなにも、先生が好きなのに。もう私には、想いを貫くことすら許されないのだろうか。子どもなんかじゃない。私の恋は、思い込みなんかじゃない。なのに――私にはもう、選べる選択肢はない。
「先生。私は背伸びしてみても、やっぱり子供でしかなかったんです……」
静かな夜の裏庭では、自分の声すら 必要以上にはっきりと聞こえてしまう。偽りの笑顔を作り、それを顔に張り付けて先生に向ける。うわべの言葉は、私の想いを素通りしていった。
一瞬、先生の瞳が歪むように細められるのを見た気がした。
そうして先生は、何かを言おうとしたようだった。言いかけてはやめるのを、数回繰り返して。けれど結局その唇は閉ざされたまま、彼はただ長いまつげを伏せた。
「そうか……」
ややあって 一言だけ、彼の唇が小さく動き、短い声を落としていった。今は空の月よりも遠く思えるその声は、まだ愛しかった。やがて踵を返したと思ったら、先生はまた私を置いていこうとする。
待ってと叫んで、呼び止めたかった。突き放すようなことをしたくせに、突き放されたくない。これ以上、先生の背中は見たくなかった。
抜け出せない迷路に迷い込み、もう閉じ込められてしまった。気付いてほしい。どうかこの状況から私を救いだして……。声を出せないまま、私は先生の背中を見つめていた。するとまるで心の声が届いたかのように、先生が振り向かないまま立ち止まった。
「誰でもいい……あの三組の彼でもいいから、誰かに送ってもらったほうがいい。もう夜も遅い……」
彼の背中から届いた言葉に、切なさをこらえきれなくなった。押し込んでいた涙を、その一言であっけなく簡単に呼び戻される。冷たいふりをしていたって、本当はとても、とても優しい。
ずっと、彼の冷たい態度が痛かった。優しさが欲しかった。だけど今は、彼の優しさが、どうしようもなく痛い――
遠ざかっていく後ろ姿は、やがて校舎の陰に消えて行く。何かが切れたように、こみ上げる涙で滲んでいく視界。目を閉じると、頬に涙が伝っていくのを自覚した。嗚咽をかみ殺し、私はその場に崩れ落ちるようにして座りこむ。
返答はあるはずもないのに、「先生」と名前を呼んだ。触れられた唇に、同じように指先を当ててみる。彼の残した小さな熱を、追い求めるように。
――“先生”は、ただの代名詞。だけど私にとっては、なによりも特別な響きを持つ、甘く苦い彼の名前だ。そっと、だれにも見つからないように、心の奥に隠した感情。この大切な想いを捨て去ることなんて、とてもできそうになかった。