第八章 “Hope And Pray”〔3〕
身動きも取れないのは、私の心が彼の手中にあるからかもしれない。
「神島」
まだ目をそらし続ける私の名前を、先生が相変わらずの静かな声で呼んだ。咎められているはずなのに、背筋に甘い震えが走る。まるで、小さな子供に優しく注意するような呼び方……。
「放してください。好きな彼に見られて、誤解されたくないんです……」
弱々しい私の唇が、やっとのことでそんな言葉を紡いだ。嘘にウソを重ねて。好きな彼なんて存在すらしていない。存在しているとしたら、今目の前に立っている人以外あり得ないのに。
今まで先生に拒絶されてきた私が、今度は彼を拒絶するなんて。本当は先生にこそ、誤解されたくなかった。私の大切な気持ちを。簡単に心変わりする、まるで子供の恋だって思われたくなかった。
だけど仕方がないのだ。だからもう置き去りにされていい。そして忘れ去られ、元のように生徒の一人として認識される。それでいい。それが正しいのだ。
やがて頬に止まっていた彼の手は、私の要求通りに離れて行った。解放され、ほっとしたような寂しいような微妙な心境で、私はまた地面を見つめ始めた。けれど、安心するのには まだ早かったようだった。再び伸びてきた先生の手に、突然顎を持ち上げられたのだ。
油断していたのと驚いたのとで、私はまっすぐ彼を見てしまった。目の前の彼の姿に、旧校舎で壁に押し付けられた時の 彼の映像が重なる。有り得ないくらいの、吐息すら届きそうな至近距離。先生の少し伏し目がちな瞳が、さっきよりももっと間近で私を見下ろしている。
すぐにわかってしまった。これは――キスの距離だ。気付いた瞬間、心臓が、どくんと大きな鼓動を始めた。
キスというその聞きなれない単語が、しつこく頭の中を駆け巡っている。顎を持ち上げられたまま、先生の親指が、私の下唇をそっとなぞっていく。今にも触れてしまいそうな至近距離に彼の唇があるのに、私の唇に止まるのは 彼の指先のみ。
さっきから、背筋に走る ぞくりとするような甘い震えが止まらない。張り詰めた私は、されるがままに突っ立っているしかできなかった。
彼は“大人の男の人”だ。それを嫌というほど思い知らされる……。
先生のその指先に、軽く もてあそばれているかのようだ。激しい自分の心臓の鼓動に、置いていかれるような感覚だった。この状況においても冷静な、先生のまなざしが私を向いている。混乱状態に陥っていく私が、彼の瞳に映し出されていた。余裕な彼に反応を見られているようで、それが恥ずかしくて仕方がない。
「せんせ……」
「静かに……見つかりたくないんだろう?」
震える私の声は、唇にあてがわれた彼の指先と、その落ち着いた声によって制される。教室で、ざわめく生徒たちに注意するときと同じ台詞。けれども教室よりもずっと親密な声のトーンが、私を静かに揺さぶる。
誰もいない夜の裏庭で、先生と秘密を共有する。誰にも見つからないように、密やかに。そんな甘い罠から抜け出せない。
やがてゆっくりと、彼の唇が降りてくる気配を見せる。以前のようにぎゅっと目を閉じる余裕すらなく、私は目を見開いたまま硬直していた。けれども唇が触れ合うか触れ合わないかというところまできておいて、まるで焦らすように、彼はぴたりと動きを止めた。
もはや何も考えられない私の頭の中に、断片的な過去の映像が駆け巡った。
たばこの落ちた旧校舎、先生の車の中、静かな夜の海、冷たい瞳。振り向かない背中、更木さんの笑顔、雨の夜の傘、彼の虚無的な笑み。英語準備室、薄暗い図書室、見下ろしたキャンプファイヤー。抱きしめられる感覚、タカシの苛立った顔、……そして。
――“この写真を公表されたくなかったら、二度と近づくな――”
断片的な記憶の中、その台詞だけがやけにはっきりと響き、私は我に返る。それはまるで、警告音。呪縛のように、私を縛り付けていく。それなのにまだ、私の心は 耐えられない痛みを訴え続けていた。
重い両手を動かして。
私は、思い切って彼の肩に触れた。