第八章 “Hope And Pray”〔2〕
目が合った瞬間、張り詰めていた糸がゆるみそうになった。愛しいその瞳を見ただけで、簡単に揺らぎを見せる私の心。油断すれば、泣いてすがってしまいそうだった。
けれどもそれを上回る、私の固い決意。
先生を守りたい。思いはただそれだけだった。
「図書室、行けなくてすいませんでした」
できる限りに慎重に、平静を装ったつもりだったのに。意図したよりも低い声が、私の口から出てきた。彼を前にすると、私はいつも冷静でいようとして失敗している。先生を直視していられなくて、私は彼から視線を外し 無意味に地面を見つめる。
「ああ、いいよ。別に待ち合わせをしていたわけじゃないだろう」
頭の上から、特に気にした様子もない先生の声が降ってくる。いつもならショックを受けるところだろうけど、今日は違った。
「そうですよね……」
呟くように言って、私は少し皮肉な気分を味わっていた。そうだ、私は先生が、図書室で私を待っていると思っていた。けれど先生は、私が思うほど 私のことを気にしていないかもしれない。だからためらう必要なんてない。
大丈夫だ、きっと。先生を傷付けることはないんだから。傷つくのは私のほう。私だけが傷つけば、先生を守れるんだ。気持ちを押し殺し、断絶された想いを消し去って。
「……先生、私、他に好きな人ができたんです」
地面の土を見つめたままの私の口は、嘘を吐き出した。やっとつなぎとめたかもしれない大切なひとを、自らの手で突き放す。第一、つなぎとめられたかどうかなんて、本当は分からない。こんなことを宣言されても、もしかしたら先生にとっては何の意味もないかもしれない。
けれど私にとっては、なんて残酷な意味を持つ嘘なんだろう。言ったすぐなのに、私はもう後悔していた。けれどもこの嘘はすでに先生の耳に届いてしまった。
そしてこの後の展開も、私には容易に想像できた。頑張れとか、月並みで適当な教師としての台詞を口にして。そして先生はきっと、この場を去っていく。
先生の顔が見れないまま、私は視線を斜め下に向けていた。
私の言葉、そこに込められた意味。私の気持ちはもう、先生にないんだと、暗に告げて。そしてその私の嘘を真実として、先生は受け止めただろう。
そう――自分の手で、壊したのだ。
今まで私が精一杯、必死に先生に伝えてきた思いのすべてを。
気が狂いそうだ。心が崩壊してしまいそうだった。
押さえつけられて、傷ついた私の気持ちが悲鳴を上げている。けれども先生を好きになることに伴うリスク、それが私を縛り付けていた。タカシに写真を突きつけられて、初めて実感したのだ。そのリスクがどんなに重いものか、私はわかっていなかった。
ふとその時、土を踏む音とともに、ただでさえ暗かった 私の視線の向かう地面に、さらに影が落とされる。彼の気配をすぐ近くに感じ 思わず顔を上げると、至近距離で視線が交差した。
私がどうしても焦がれて止まない、深い、深い瞳の色。
月の浮かんだ夜の裏庭、月明かりを背景に。その顔に影を落とされながら、先生は私の目の前に立っている。彼は月並みな台詞を言うでもなく、この場を去りもしない。それは私の予想したシナリオとまるで違っていた。
暗闇の中、きれいなその顔を間近で見てしまった私は、この状況においてもまだ、どきりとしてしまう。慌てて視線をそらし、うつむく私。すると先生が手を差し出し、私の頬にその掌を当ててきた。
わざとだろうか。図書室での仕草と、全く同じに彼は振舞う。彼の抱擁を、彼の体温を瞬時に思い出させられ 頬がかっと熱くなった。そのまま私の頬にとまった彼の手は、そこに更なる熱を生む。支配されたように、されるがままの私の顔は、先生の手によって彼を向かされる。
もう一度真っ向から彼の目を見てしまい、その瞬間 私は急いで視線だけ彼からそらした。
「……どうして、俺を見ない?」
責められているわけじゃない。様子を窺うような問い方。ただ静かなその声音に、心の内を暴かれてしまいそうだった。