第七章 “If You Please,”〔1〕
思わず握りしめていた自分の掌が、汗ばんでいる。どうしてだろう。私は最近動揺してばかり。そうだ、最近 やけに先生とふたりになることが多くなった気がする。以前は先生と言葉を交わすことすら、難しかったのに。
第七章 “If You Please,”
「代表の子たちと、学祭の進行について話しあってるんじゃ、なかったんですか?」
しんとした空間に、私の声がぽっかりと浮かび上がる。先生は誰もいない図書室を見回してから、こちらへ近づいてきた。
「ああいうのは性に合わないんでね。ここは静かでいい」
近くまで来た先生は、そう言ってから 少し疲れたような顔を見せる。いつもの上手い言い訳を使って、抜けてきたのだろうか。話し合いの時も、彼はいつも途中で抜けていたのだし。
とにかくそんなことはどっちでもいい。昼間のユキの言葉が、頭にちらついて離れないのだ。先生の顔を見るだけでかっとなって、心臓が高鳴っていく。何を考えているのだろう、私は。彼にとって私が特別だとか、全く有り得ないのに。そんなことを考えながら、一人悶々としていると。
「……君一人か?」
先生が単調な声音で、私に問いかけてきた。私はおかしな態度をとっていなかっただろうか。とにかく今は落ち着いて、自分らしく行動しなければいけない。どうして私がひとりで、こんなところにいるのか。彼の質問を要約すると、おそらくこれだろう。
「私は図書整理係です。係はひとりなので、ひとりで作業しています」
彼の求める答えを簡潔に、適切に述べる私は、優等生さながら。そうか、とだけ言って、納得したらしい先生は歩き出す。係りの作業をほっぽりだして、私も思わず後を追う。慣れたように、いつもの所定の場所であるかのように。先生の足はまっすぐに、ある本棚に向かっていく。
彼に少し遅れて たどり着いたそこに、ずらりと並んだ 外国語で書かれた本たち。本棚に向いたその横顔、教室の教卓よりも先生が近くにいる。募る愛しさに、私の鼓動が再び反応し始める。けれども昨夜の傘の中よりも距離があったので、私は少し落ち着いていた。
「好きなんですか? 図書室」
気付けば、彼にそう 問いかけていた。私の質問を受けながらも、先生の手はマイペースに本棚に伸びている。その中から一冊を取り出した彼が、ぱらりとそのページをめくる。少し見えたその本の中身は、やっぱり英語がずらりと並んでいた。
「好き? ……ああ、そうだね。好きと言えば、好きかな」
気に入らなかったのか 本を本棚に戻しながら、先生は質問に答えてくれた。先生の好きなこと。先生のセンセイじゃない、個人的な部分。それを一部だけでも知ったことで、私は舞い上がっていく。怖いもの知らずとばかり、私は更に彼に問いかけていた。
「どうして先生は、英語の先生になったんですか?」
いつもなら、関係ないと切り捨てられそうな質問だ。でも私は先生のことが知りたいのだ。それに、今なら切り捨てられても構わない気がしていた。
「別に、意味なんてないよ」
彼の返答は、私を切り捨てはしなかった。けれどもその一言は、あっけなく会話を打ち切ってしまった。これ以上は立ち入らせないとばかり、突き放す。それはまさしく、いつもの彼らしい返答だった。
「……そうですか」
私は小さく、それだけ言った。というより、選べる言葉はなく、そう返すしかなかった。覚悟はしていたけど、やっぱり少しがっかりだ。すると本棚から新しい本を取り出した先生が、目線はこちらに向けないまま 問い返してきた。
「どうしてそんなことを聞く?」
「私も別に意味はないです。ただ、知りたかった。先生のこと」
取り繕うつもりもなくて、私は心の内を正直に明かした。先生はなにも言わず、本を開いて目線をそこに向けている。
彼の目は今、紙の上の文章を、物語として追っているのだろうか。彼の中でその文章は、教科書の文章とは違った意味を生み出すだろうか。
ふと、本を持ったままの先生が再び歩き出した。そうして彼は、窓際にひとつだけ置いてあった椅子に座る。足を組んで、いつもの気だるげな動作もそのままに。膝の上に開いた本をのせて、彼は目を伏せる。その指が、同じペースで本のページをめくっていく。
なるほど、ここは本棚の間だし、人に見つかりにくい。窓もあるし、暗すぎず 本を読む環境はまずまずだ。あの椅子はきっと、先生が座るために自分で置いたんだろう。
私を気にする様子もなく、読書にふける先生。対する私はと言えば、ただ黙って突っ立っているだけで、手持ちぶさたもいいところである。けれど彼を目の前に、整理係の作業に戻る気にもなれなかった。ただ黙って、先生の姿を見つめてみる。
窓から差し込む光は、放課後らしく少しの夕暮れの色をしていた。その夕暮れの淡い色が、先生の背中から差し込んでくる。逆光で、私の目には 先生の姿が少し暗く映っていた。
彼はこちらを向いて座っているのに、その表情がよく見えない。そのまま彼は本に集中して、長い沈黙が訪れるのだと思った。けれど少し離れた距離から、先生が唐突に話し始めた。
「自分も周りも、同じ言葉を話す。それが日常になれば、自分の世界が狭くなっていくような気がするだろう。だから、退屈な日常を壊す何か……きっかけのようなものが、欲しかった」
いつもよりも長い言葉を発してから、彼がまた黙る。何事かと思いながら、私は彼の言ったことの意味を模索していた。そうして、思い当たる。――さっきの、私の質問。もしかして先生は、先生になった理由を話してくれたのだろうか。考えを巡らせている私を尻目に、先生がふっと皮肉な笑いをもらした。
「たいした理由でもない。人ひとりの世界なんて、もとから狭い」
言いながらも、彼の目線は本に向いたままだ。先生の言うことは、とても難しいと思った。彼の言うことに対して、気の利いたことは返せそうもない。ただその内容よりも、私には気になることがあった。
どうして英語の先生になったのか、という私の質問。それはついさっき、いつもどおり 生徒には立ち入らせないとばかりに 打ち切られたはずだったから。
「どうして……話してくれたんですか?」
私は、恐る恐るそう聞いてみる。すると、動かすのはとても難しいと思っていた先生の目線は、意外にもすぐに私に向けられた。