第一章 ”Yes,I Long For You.”〔4〕
感情をむき出しにするなんて、子供のすること。子供だなんて思われたくない。私が今まで恋愛から遠ざかっていたのには、私の心にあるそんな思いが大きく影響していたのかもしれない。
私は人前で泣いたり、笑ったり、怒ったり騒いだり。そういったことをあまり好まない。昔からそうだったけれど、特に最近はどうしても人前で感情をさらすことに抵抗があった。
打ち解けた友達の前でならなんとか許せるけど、大勢の人前――つまり、学校という場所も例外じゃない。
他人に心の内は決して見せようとしない。そういうところは、先生と私の共通点なのかもしれない。でもそれもあくまで、先生がセンセイとして学校に居る間だけの話かもしれないのだけれど。
先生が実際どんな人かなんて、私には全く知るすべもないのだ。必死に大人になろうと感情を隠し、冷静であろうとしている私とは違う。先生は、高いところから敢えて私たち生徒に壁を作って心の中に侵入させないようにラインを引いている。……やっぱり、同じようで全然違うのだ。
大人になるのを急いだって、結局は誰もが平等に年をとっていく。もし、一気に二つ三つ年をとれれば、いつかは追いつける日が来るのだろうか。
私は今日もそんなことを思いながら、教卓の前に立っている先生を、左から二列目、後ろから三番目の席についてぼんやり眺めている。距離にしてみればほんの数メートルだけれど、実質その何倍も遠くに居るような気がした。
「じゃあ、今日はテストを返すぞ。平均点は50点。赤点の者は、やり直して再度提出して」
先生はそう言って、手に持っているテスト用紙のたばから一枚ずつ配り始める。
一番、二番と出席番号順に順調に配られていく。私はそれを半ば祈るような心境で待っていた。もう少し。もう少し待てば私の番。テストを終えた時、みんなが解けなかったと言ったのに手ごたえがあったのだから、きっといい点に違いない。
もしそうなら、彼の手から答案を受け取るその瞬間、彼の表情は動くだろうか。不特定多数の中に溶け込んでいる私が、閉ざされた彼の世界を垣間見ることができるだろうか。
彼が生徒のテストの点数を褒めたりするとは思えなかった。でも、淡い期待が胸に一つ。もしかしたら頑張ったな、なんて声をかけてくれるかもしれない、って。
私はどうしても知りたかった。ほんの少し、一瞬だっていいから。あの瞳の奥に隠されているはずの人間的な部分を知りたい。先生の、センセイじゃない顔を見せてほしい。
「12番。12番――神島。いないのか? 早く取りに来い」
「は、はい」
ついに呼ばれた自分の番号と名前に、考え込んでいて気付かなかった私は、返事が少し震えてしまった。
早歩きで先生のところに向かう。
どうしてこんなに緊張しているんだろう。たかがテストの一枚に。そう思いながらも、私は馬鹿みたいに、すがるような思いで祈り続けていた。良い点でありますように、と。そうやって震える指で受け取った回答用紙を恐る恐る見た瞬間、一気に顔がゆるんだ。
名前の横に100、と先生の赤い文字が記してあったのだ。嬉しくて、思わずらしくもなく笑顔で先生を見上げたけど、先生は私を見ていなかった。
やっぱり全く熱を持たないその視線は、次の答案用紙を向いている。抑揚のない声で、次の生徒の番号と名前を読み上げる。出席番号順に。機械的に。
なにも言えず笑顔を消して、回れ右をして席に戻っていくしかない自分が、なんだか惨めな気がした。
「なに、麻耶。このテストに願掛けでもしてたの?」
席にたどり着いた私が椅子に座ると、すでにテストを受け取って席についていたユキが そんなことを言ってきた。
ユキは先生がテストを配っているのをいいことに、斜め前の席から私の方を向いていた。言い当てられて、私は驚いてユキを見る。
「え、どうして」
「だって麻耶ってあんまり感情的なタイプじゃないけどさぁ。何かに夢中になってる時とかはね、目に出るもん」
「目……?」
「そう。すごく、感情を表してる目。訴えかけるっていうのかなぁ。口で言わなくても目で語るってやつね」
ユキのその言葉に、私の気持ちが落ち込んでいく。
感情を隠して大人ぶっていたつもりだったのに。これじゃ先生に追いつくなんて無理なはずだ。
先生をちらと見てみると、やっぱり彼はテストを配ることにしか興味がないみたいだった。否、正しくは職務をそつなく行うことに、だ。
「麻耶はさ、ちょっと変わってるよね。顔に出ないタイプであって、でもわかりやすいなんて」
ユキはそう言って笑うけど、私はとても笑う気分にはなれなかった。
私はテストを配り続けている先生に、もう一度視線を向けた。先生が私の視線に気づくはずはないから、遠慮は必要ない。有難いんだか何なのだか。
先生の手にあるテストの束はまだまだぶ厚い。この学校の出席番号は女子から始まるから、最後の生徒まで配り終わるにはもう少し時間がかかりそうだ。
テストを受け取った生徒たちは、それぞれ仲の良い者同士集まって、テストの点数について一喜一憂している。
ざわついている教室。私はそれをいいことに、ユキと雑談を続けることにした。さっきテストを受け取ってから、心のなかに何かもやもやした感情が生まれたのだ。それをどうにかして吐き出したかった。ユキなら付き合いも長いし、話をするには彼女がぴったりだ。
「不特定多数のうちの、一人。センセイにとっての生徒って、やっぱりそんなもんだよね」
唐突な私の言葉に、ユキはマスカラをたっぷり塗ったまつげと一緒に、まぶたを二、三度しばたかせた。ばさばさと音がしそうだと思った。
「あれ、麻耶。もしかして月原先生が好きなの? だからテストにこだわってたのね」
その名前を聞くだけで、心臓が一回、ひときわ大きく動いた。月原。私の視線の先に居る、あの無機質で冷めた目をもった、先生の苗字。下の名前は、涼也。
“月原 涼也”。
なんてぴったりな名前なんだろうって、初めて聞いた時、心が震えるようだったのを覚えている。
「彼はねー、愛想ないけど、顔はいいし長身だから密かに一番人気なのよね。ストイックな感じがいいんだってさ、あたしにはわからないけど。厳しい戦いになるね」
「……違うってば。私はそんなタイプじゃないでしょ」
「あは、そりゃそうか。でもさ、そろそろ麻耶にもできるといいね。好きな人」
ユキのその言葉が微妙にずれている気がしたのはどうしてだろう。
私は恋なんてしてるわけじゃない。先生が生徒に興味がないことも、センセイに恋するなんて不毛なことがどんなに子供じみているのかもわかっているつもりだ。
でも、先生に向いたこのよくわからない感情はいったい何なのか。視線を先生に投げ続けながら、私は自分の心の中の不可解な感情に戸惑っていた。