第六章 “Waviness”〔6〕
先生の目を見ていられなくなって、私はまた うつむいた。私から目をそらすなんて。でも今はそうでもしないと耐えられそうになかった。高ぶっていく自分の感情に、自分が自分で無くなるような。
うつむいてみると、先生の服の袖もわずかに濡れていた。それがどうしても目について、私はまた焦り始める。
「すいません。先生まで濡れてしまって……」
「ああ、このくらい 別にいいよ」
ひたすら恐縮する私の態度を 気の毒にでも思ったのか、先生が何でもない口調で告げた。けれど何でもないことのはずがないのだ。遅くに送ってもらい、さらに先生まで雨にぬれてしまった。
なるべく迷惑をかけないための計画は、完全に失敗だ。さっき車に乗っていた時より、状況はさらに悪化している。どうにかできないか必死に考えて、やっと思いついた私は、慌てて自分の鞄をまさぐる。
「あの、これ……返さなくていいですから」
言って、私は先生に取り出したハンドタオルを差し出す。先生はちらと差し出されたタオルを見たけど、受け取ろうとはしない。そうして予想通り、先生は熱のない声音で拒否する。
「いや、いいよ。必要ない」
「お願いします、もらってください」
断わろうとする先生を無視して、しつこく食い下がる。私は意地でも手を引っ込めようとはしなかった。畳み掛けるように再度呟く。
「お願い……します……」
声が弱々しくなってしまったのは、押し付けにも似たこの行為に、引け目を感じていたから。でも私にはもう、このくらいしかできないのだ。こんなタオル、先生には何の意味もないものだとしても。生徒として、教師である彼に与えられるだけ。迷惑をかけただけというこの現実が、私には耐えられない。
必死な私の手から、ややあって先生がタオルを受け取る。けれど、ほっとしたのもつかの間。タオルを持った彼の手が 急に私の顔面に伸びてきて、驚いた私は反射的にびくりと身をすくめる。
「……濡れているのは、君のほうなんじゃないのか」
彼のそんな言葉とともに、ハンドタオルは、私の雨に濡れた頬をかすめていく。
黒板消しで、黒板の 白いチョークの文字を消すように。彼の仕草は、いつもの教室での彼と変わらない。けれども先生が持っていたのは黒板消しじゃなくタオルで、ぬぐったのは私の顔の水滴で。
あっけにとられ、何もできなかった。先生がタオルを返してくるので、考える前に自然と受け取ってしまった。そうして先生は、私に傘を持たせてから傘から出ていく。雨粒を遮るものがなくなって、あっという間に先生が濡れていった。あんなに濡れては、どっちにしろハンドタオルなんて気休めにもならなかった。
追いかけて、彼に傘をかざしてあげればよかったのに。その時の私はそんなことも思いつかないほど、余裕をなくしていた。やがて先生は車に乗り込み、ついにその姿は見えなくなる。
雨音の中に、車のエンジン音が響きわたった。動き出したタイヤが、できたての水たまりを乗り越えていく。それを黙って見送ることしかできない私。しつこく傘を打ち続ける雨音だけが、やけに耳に付いて。彼の傘と 返されたタオルを、知らぬ間に強く握りしめていた。