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第六章 “Waviness”〔4〕




 永遠に家に辿り着かなければいいのに。そんな私の非現実的な願いは叶えられるはずもなく。非情にも車は目的地に近付くばかりだった。


 時間だけ過ぎていく中、時が止まったように しんとした車内。先生の横顔ばかり見ているわけにもいかなくて、何も言えないまま、私はただ黙って前を見ていた。


 かき乱された私の鼓動は、沈黙によってすっかりもと通りになっていた。けれど こうしんとしていると、色々考えなくていいことまで考えてしまう。彼がこの状況を面倒に思ってはいないだろうかと 思い至ってしまい、今さらながらに私は心配していた。


 もう、車の窓から見る景色も、完全に夜そのもの。本来ならとっくに仕事を終えているはずの時間なのだ。それなのに話の流れとはいえ、職務時間外に家まで送ってもらうなんて。勤務は五時までと言っていた先生が、面倒に思わないはずがない。それは不可解な彼の行動よりも ずっとわかりやすく、かつ基本的で当たり前の話だ。


 先生の車に乗れることに舞い上がったり、先生の様子がおかしいことに気を取られていて、そんなことにも全く気付かなかった。送ってもらっている側という、引け目も手伝って。私は見えない彼の心の中を勝手に予想して、また 静かに心を乱していた。


 この時間が永遠に続いてほしいという願いと、早く終わらせて先生を開放しなければいけないという焦りとの、矛盾。それでも意地とばかり冷静を装い続ける私は、ひたすら無意味に前を見つめる。すると、フロントガラスにぽつりと二、三滴落ちてきた水滴に気付く。


 さっきまで気配もなかったのに、突然雨が降り出したようだ。そういえば今朝の天気予報で、夜に雨だと言っていたっけ。


「遅くなってしまったから、ご両親に挨拶しておかないとね」


 規則的に落ちてくるだけの 雨の水滴と同じように。また センセイとしての義務的な言い方で、先生がふと言った。


「いえ、大丈夫です。うちの親はうるさくないし、大丈夫ですから……」


 反射的に私は断っていた。これ以上迷惑はかけたくない。先生は教師の義務感で言っているだけなのだ。本心ではきっと、面倒だと思っているに決まっている。生徒という時点ですでに、彼に迷惑をかけることしかできないのに。これ以上 先生の時間を拘束して“面倒な対象”になりたくなかった。


 彼に嫌われたくない一心で、私は必死になっていた。対する先生は特に気にした様子もなく、「君がそう言うなら」とあっさり引き下がった。


 車はとうとう、目的地間近の駅を目前に捉える。この貴重で愛しい時間も もう、あと数分にも満たないだろう。そんな状況なのに私は、右に曲がるとか直進だとか、道案内のためだけに口を動かすだけ。


 先生は黙ったまま、それに従って車を進めている。結局 何もできなかった。彼は私よりもずっと上手うわてなのだ。彼があくまでも教師であることを貫き通そうとするならば、いくら彼の心の内を知ろうとして 私が悪あがきしてみても、滅多なことでは届かない。


 気持ちが沈みこむのを感じながら、私は思わず目を伏せる。リミットは目前だ。当然の話だけれど、時間に逆らうことはできなかった。


「ありがとうございました。……ここまでで」


 家の近くの路地まで来たところで、私は頭を下げながら用意していた言葉を淡々と述べる。私の言葉に反応して、先生が道の端に車を止めた。荷物もしっかり持っている。すばやく降りる準備はばっちりだ。はじめから、送ってもらうのはここまでだと決めていた。


 本当はここからさらに数分歩くのだけど、ここらは住宅地で入り組んでいるのだ。車で入ったはいいけど、出るのは大変だ。以前送ってもらった時もここで降りたのだし。


 私の 完璧なまでの“なるべく迷惑をかけないための”計画。誤算があるとすれば、雨が急激に勢いを増してきていたことだろうか。さっきから車のワイパーも、フロントガラスの雨を払い続けている。


 当然のことながら、私は傘を持っていなかった。けれど別に濡れていけばいいことだし、計画に問題はない。とにかくすばやく事を運んで、一刻も早く 先生を職務から開放したかった。


 この時間の終わりは悲しかったけど、先生に嫌われたくないという気持ちが強まる中、いつしか焦りのほうが上回っていたようだった。けれど焦る私を引き留めたのは、意外にも先生の声だった。


「このままじゃ濡れてしまうだろう。確か後ろに傘があったと思うから、それを持っていくといい」

「すぐそこなので、大丈夫です」


 シートベルトをはずしながら、間髪いれず私は強がりを言う。これ以上先生の手を わずらわせたくなかった。


「ありがとうございました」


 再び深々と頭を下げ、車を降り ドアを閉める。未練のかけらを振り切り、私は彼の車に背を向けた。


 弱めのシャワーのような夜の雨は、思いのほか冷たかった。あっという間に濡れていく私の制服。夢から醒めて泣きそうな、自分みたいだと思った。


 すぐに車は遠ざかっていくだろう。私の気持ちをとり残して。……そう思っていたのに。


「神島」


 車のドアの開く音とともに、再び彼の愛しい声が、私の足を引き留める。振り向けないままに、私はぴたりと立ち止まった。ドアがしまる音と、彼がこちらに近づいてくる気配を、背中で感じる。ややあって私が振り向くと同時に、すぐ近くで傘がぱんと音を立てて開かれた。


「返さなくていいから。持って行って」


 そう言って、先生が傘を私の頭上にかざす。思いがけないその行動に、私は驚いて先生を見上げる。大きな傘は少し余って、彼と私二人を雨から守ってくれる。先生は、そのまま傘の柄を私に手渡そうとした。


 我を忘れてしまったのは、無表情の彼の声音が、ことのほか やわらかかったからなのか。思わず彼の目を見つめ、私は柄を握る 彼のその手ごと握ってしまった。


 同じ傘の中、至近距離に彼が居る。うるさく鳴り響いているのに、自分の鼓動の音がやけに遠い。先生の手は少し濡れていた。もっと濡れている私の手は、逃すまいとするように、彼の大きな手をぎゅっと握りしめる。


 先生はやや面食らったような顔をして、そんな私を見ていた。濡れた彼の髪の毛からひとすじ、水滴が落ちる。その一滴の水滴でさえ、愛おしいと思った。



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