第六章 “Waviness”〔2〕
乗り込んだ先生の車の中は、以前乗った時と全く変わっていなかった。クッション一つなく、音楽も ラジオの音も無い、殺風景で無音の車内。
先生の車に再び乗れるなんて夢のようだった。ドアを閉めれば、車内は彼と私だけの空間になる。シートベルトをした先生がエンジンをかけて車を発進させるので、私もあわててシートベルトを引っ張った。それを固定しながら、私はついに先生に尋ねた。
「先生、あの時 準備室で……、何を言おうとしたんですか?」
いきなり核心をついてしまった自分に、走る緊張。もう少し雑談をしてから本題に入ればよかった。……先生が私と雑談をするとは思えないけど。
固定したシートベルトから視線を動かすことができない。我ながら、弱々しい声だったと後悔する。先生はしばらく何も言わなかったけれど、赤信号で停車したところで ようやく口を開いた。
「……さぁ、覚えていないな」
とぼけているような、その台詞。勇気を出して先生の横顔を見てみても、その視線はあくまでも前方に向けられたままだった。運転に集中するふりをして、はぐらかしている。このまま無かったことにしてしまうつもりだろう。問い詰めようと思ったけど、きっとそれは無駄なことだ。
それでもめげない私は、今度は さっきから気になっていたことを彼に問うてみる。
「この後、どこへ行くんですか?」
「決まっているだろう? 君の家だ」
わざとだろう、彼は分かりきっていることを敢えて即答する。先生は駅の近くに用事があると言っていた。私を送り届けるという仕事を終えた先生が、この後どこに行くのか知りたかったのだ。
何を聞いても、無難に はぐらかしてしまうつもりだろうか。むっとした私には、もう黙り込むことしかできなかった。すると再び、先生がまた 前を向いたまま口を開いた。
「それとも、送るのはやめにして……」
思いついたような言い方で。けれど意味深に、先生はそこで言葉を切った。そして先生は、突然何を思ったのか 車線を変更した。車線を変更したら、右に曲がれない。この交差点で右に曲がらないと、駅方面からは遠ざかるばかりだ。先生はそのまま直進し、車を路肩に寄せて 停めた。
そこで ようやく先生がこちらを向いたので、私が車に乗って初めて、私と先生、二人の視線が交差した。何事かと怪訝な顔をする私に、先生は先ほど途切った言葉の続き――衝撃的な一言を発する。
「このまま君を、連れて帰ってしまおうかな」
一瞬 言葉の意味を考えた後、私は目を丸くしながら、思わず 放心した。ふっと、軽く息を吐き出すように、先生は陰りのある笑みを浮かべる。全てを見透かすように私を映し込む、綺麗な彼の瞳。もはや隠されることもない“感情的”な その瞳の色が、私の心に 甘い揺さぶりをかける。
目の前のこの人は、もうセンセイなんかじゃない。一回りも年上の“男の人”に、経験のない私は簡単に焦らされている。
私の反応を観察するように、彼の視線が私をとらえて離さない。じっと見られるほど、私の頬が熱を帯びていく。けれども、目をそらすこともできなかった。カチ、カチと規則的に鳴り響く、車のウインカーの音がやけに煩い。息苦しくて、気付けば 息をするのを忘れていた。