第五章 “ A Tender Heart,”〔7〕
恐る恐る後ろを振り向くと、強い光に顔を照らされ、まぶしさに目を細める。わけのわからないまま、すぐにその光は私の顔から消えた。やがて視界を取り戻した私の目に、見慣れた人物が飛び込んでくる。
「何をしてる? もう生徒はみんな帰ってしまったぞ」
その人物は首をかしげながら言って、そのごつい両腕をまげて、手を腰に当てる。厳格で厳しい、私のクラスの担任、内藤先生だった。何をしていたかと問われても説明に困る。それに月原先生がからんでいるだけに、あまり追及されたくない。話をそらすことにした私は、逆に担任に問いかけてみる。
「内藤先生こそ、何をしていたんですか?」
「俺か? 俺は校舎の見回りだ。今日は俺が、施錠と見回りの当番なんだ」
年の割に素直な担任は、私の思惑通りに誤魔化されてくれた。なぜここにいたのかという追及を逃れることができて、私はほっとする。
担任の手には、懐中電灯が握られている。さっき私の顔を照らしたのは、懐中電灯の光だったようだ。担任が見回り当番ということは、他の先生達はもういない ということだろうか。月原先生もやっぱり、もう帰ってしまったのだろう。そう悟って、私は再び肩を落としてうつむく。――と、その時だった。
「どうしました?」
突然放たれた、とても愛しい声。私は、はじかれたように顔を上げた。同時に視界に飛び込んでくる、焦がれ続けた姿。彼は、こちらに向かって歩いてくるところだった。やがて私に気付いたらしい彼の視線は、一瞬、私の目をとらえる。
どきり、と。まるで当然のことのように、私の心臓が 強く彼に反応する。けれど彼の視線の向かう先は、すぐに担任に変わった。二人とも懐中電灯を持っているということは、一緒に見回りでもしていたのだろうか。
「うちのクラスの神島 麻耶ですよ。まだ残っていたみたいで」
担任が月原先生に向かって、少し苦笑交じりに話した。対する月原先生は、何も言わなかった。うちの担任は月原先生にとって先輩にあたる。せめて相づちくらい打てばいいのに。けれど担任は、無言の月原先生を特に気にした様子もなく、腕時計をちら見した。
「もう遅いし、外は暗いぞ。仕方がないな、家まで送ってやるから ちょっと職員室で待ってろ、神島」
言って、担任が私を職員室の中に促そうとする。まだ月原先生のことが気になってはいたけど。とりあえず、私が素直に 担任の指示に従おうとした、その時。
「僕が車を出しましょう」
信じられない台詞が、月原先生の口から出てきて。耳を疑いながら、私はその言葉の意味を慎重に飲み込もうとする。そんな私の内心なんて知るよしもない担任は、しばらく考えるような仕草をした後、気が引けるとでも言いたげな表情で口を開いた。
「しかし神島は俺のクラスの生徒だしなぁ……。コイツの家は駅の向こうですよ。月原先生にそんな迷惑は……」
「内藤先生はまだ仕事が残っているでしょう。僕は帰るだけですし、それに丁度、駅の近くに用があるので」
月原先生がらしくもなく、そんな もっともらしいことを言って自分の仕事を増やしている。私を置き去りに、話はどんどん先へ進んでいく。当の私は、混乱の中に身を置いていた。この展開は、もしかして先生の車に 再び乗せてもらえるということだろうか。
「そうですか。それなら月原先生、悪いがお願いしますよ」
担任はそう言って、あっさり折れた。月原先生は後輩だし、任せやすかったんだろうか。担任は懐中電灯を持って、さっきとは反対方向に向かっていく。見回りの続きをするつもりだ。
やがて担任の姿が見えなくなって、薄暗い廊下がしんと静まり返る。頼りない視界の中、先生がふと 私を見た。彼の視線にさらされて、彼に何を言いたかったのか、もう忘れてしまった。
職員室から もれ出る明りに、彼の端正な顔が 淡く照らされて。この感情は何だろう。泣きたくなるほどの衝動が、心を埋め尽くす。胸が、苦しい。さっきとは比べ物にならないほどに。
「じゃあ、行こうか」
手短にそれだけ告げて、先生は私から視線をそらした。