第五章 “ A Tender Heart,”〔6〕
少し暗くなった校舎に、私は再び戻ってきた。彼に会う、そのためだけに。放課後だというのに校舎に入って上履きに履き替えるのは、おかしな感じだ。
急がないといけない。もたもたしていたら、先生は帰ってしまう。それに学校だって施錠されてしまうだろう。迷いはなかった。私の足はまっすぐにあの場所に向かう。
旧校舎の、体育館の裏へ。転がったバレーボール、古いベンチ。彼と初めて出逢った場所。学校の中で唯一、彼がセンセイで無くなる場所。
昼間はただ寂れた印象しかなかったけど、夕暮れの薄暗さに包まれたその場所は少し怖かった。ぐるりとあたりを見回してみる。誰もいない。もしかしたら先生がここにいるという私の予感は間違っていたのだろうか。
けれど私の目は 見つけてしまった。地面に寂しげに転がる、いくつかの、まだ新しいたばこの吸い殻。すぐにわかった。これは先生の痕跡だと。少しだけ残っている苦い香り。私は間に合わなかったのだろうか。
なんだか、胸がつぶれそうだった。彼がいて初めて、この場所は特別な場所になっていたのだ。ひとりでここにいても、さみしい気持ちが募るだけ。
先生はこの場所で、一体何を思っていたんだろう。なぜかわからないけど、先生は少しずつ変わってきている。言いかけたまま伝えられることのなかった、彼の言葉。先生の押し殺していた感情、その意味はなんだろう。
脳裏に焼き付いて離れない、彼の小さな違和感と、かたくなな冷たい表情。私はしばらく、その場に立ち尽くした。
夕暮れの景色は長続きせず、日は落ちていく。このままここにいても意味がない。だけど帰る気にもなれず、かといって旧校舎にとどまっているわけにもいかず。まだ先生の姿を追い求め続けている私の足は、次の心あたりへ向かう。
先生は確かに旧校舎にいた。その場を後にして先生が向かう場所は、職員室しかない。そして荷物を持って、その足で 駐車場に向かい車に乗り込むだろう。なんとかそれまでに、先生を捕まえなければいけない。
旧校舎でもたもたしている間に日は完全に暮れてしまった。何時だかわからないけれど、もう夜のような暗さだった。こう暗くては廊下を歩くのも不気味だ。いつの間にか、グラウンドの生徒たちの声も聞こえなくなっている。部活の生徒たちも帰ってしまったようだ。暗さも手伝って、気付けば走っていた。誰もいない校舎は、少し怖い。
私は職員室に向かっていた。やがて見えてきた職員室の入り口から明りがもれているのが、少し遠くからでもわかった。もしかしたら、やっぱりあそこに先生がいるかもしれない。
期待に胸を躍らせながら、職員室のドアをノックしてみる。けれどしばらく待ってみても反応がない。痺れを切らした私は、ついに意を決し、ドアを少し開けて中をのぞく。そこには誰もいなかった。私が落胆に肩を落とした、その時。
「神島?」
背後から私の名を呼ぶ、男の人特有の 低い声。校舎の暗さは、私の恐怖心を増大させていたようだった。心臓を握りつぶされたかと思うほど驚いた私は、思わず体をびくつかせた。