第一章 “Yes,I Long For You.”〔3〕
先生が授業の内容以外を話すのを聞いたのは、初めてだった。その瞳に感情は一切浮かべずに、腕組みをしてタカシを見ている先生。
この状況においても、怒りとか呆れとか、全く表に出さないのはすごいと思う。尤も、先生は生徒に対してのそんな感情は、元から持ち合わせていないのかもしれないけど。
私は、先生はもう少し前から見ていたのかもしれないと思った。タカシがたばこに火をつける瞬間に止めるなんて、あまりにタイミングが良すぎる。
きっと高みの見物を決め込んでいたんだろう。私たち生徒を子供だと見くびった、その大人の余裕がなんだか気に食わない。
タカシは今更だということをわかっているだろうに、手に持っていたライターを慌ててポケットに隠した。さっきまでの不敵な笑顔に反した、狼狽した慌て様がひどく滑稽に映る。さすがにたばこまで隠すことはできなかったのか、タカシは仕方なく先生に苦笑いを向ける。
「あ……っと、これ、親父のなんですよ」
タカシの苦し紛れの言い訳に、先生は口角を吊り上げた。そんな笑顔と言えない表情でも、はじめて見た無表情以外の先生の顔に、私の心臓が大きな悲鳴を上げる。もっと知りたい。先生のいろんな表情を見せてほしい。そんな思いが私を満たしてゆく。
しかし先生は私のことなんて全く眼中にないようで、タカシだけを向いて口を開いた。
「適当にやってるが、そんな見え見えの嘘に騙されてやるほど職務放棄してはいないんでね。第一、親父のだか知らないが今吸おうとしてただろう。……悪いけど、没収しとく」
先生はゆっくりと落ち着いた足取りで私たちの机の前まで来て、タカシの手からたばこを取り上げた。有無を言わせぬ、氷みたいな雰囲気に飲まれそうになる。悔しそうな顔をしたタカシが痛々しいけど、もはや同情する気持ちも起こらなかった。
「面倒だから、他の先生には黙っておいてやるよ。もし見つかっても、今日のことは言うな」
先生は浅く溜息をつき、没収したたばこをスーツのポケットに入れた。私は先生をじっと見上げてみたけれど、彼はタカシのことしか見ていなかった。心によくわからない重たい感情がのしかかってくる。
私もたばこを持ってこようか。ふとそんなたくらみが浮かんだけど、すぐに打ち消した。彼に関心を持ってもらいたいからそんなことをするなんて、まるで子供じみている。大人の先生の前で子供な真似はしたくないし、通用するとも思わない。寧ろ軽蔑されるだけだ。第一私はそんなことをできるタイプじゃない。比較的目立たない私には、そんな大それたことできないのだ。
それに私は恋をしているわけじゃない。したことがないからわからないけど、恋はもっと幸せで、甘い気持ちなんだと思うから。だから、わざわざそんなことをする理由なんてない。
先生はそれ以上何も言わずに、教室を出て行った。ちらりとも私たちを見ずに、職員室の方向へ消えていく。黙って見送りながら、私はどうして共犯者と思われなかったのだろうと考えていた。たばこを吸っていたわけじゃないけれど、たばこを吸ってるタカシと一緒にいたのだから、そう思われてもおかしくないのに。先生は私に視線すらくれなかった。表沙汰にされたり疑われたりすると私も困るわけで、別に共犯者だと思われたかったわけじゃないけど……複雑だ。先生の関心はこれっぽっちも私に向いていないわけで。
悶々とそんなことを考えていたら、タカシが苦々しい表情で舌打ちした。
「気に食わないよなぁ、あいつ」
「そうかな? 見逃してくれただけ、十分優しいと思うけど」
「なんだよ麻耶、あんな奴の肩持つの?」
タカシはそう言って口を尖らせた。ばつが悪いのだ。先生に見つかった上に、不本意にも助けられたことが。確かにさっきの様子は見るからに格好悪くて、自尊心の強いこの彼にとっては屈辱以外の何物でもなかっただろうけど。私はやっぱり拗ねた子供みたいだと、思うのだった。