第五章 “ A Tender Heart,”〔2〕
先生は私の腕――腕というより手首のあたりを引いて歩き出す。ひるんで言葉を失った様子のタカシを、置きざりにして。私は手を引かれるまま、先生に少し遅れながらもついていくしかなかった。本来私が向かうべき生徒の玄関とは、全くの反対方向へ。
一体どうしたというんだろう。今日はずっと先生の様子がおかしい。ななめ前を歩く先生の、かろうじて横顔は見えるけれど、その表情までは見えない。
ありえない展開に、頭がついていけない。ただひとつわかるのは、つかまれた瞬間はすごく力強かった先生の手が、歩くたびに少しずつゆるんでいくことだけだった。ゆるんでいくと同時に、私の心に不安の芽が芽生えていく。
何も話すことなく、私をちらりとも見ることもなく、ただ黙々と歩く先生。そのスピードは速いわけではない。歩幅も歩き方も、まったくのいつも通り。彼の仕草はいつもの余裕と冷静さを、ほんの少しすらも欠いてはいない。様子が変だというのは、むしろこの行動自体についてだ。私の手を引いて歩いているということ。
どうしていいかわからなくて、私はただ 先生の後ろ髪を見上げながら、親に連れられた子供のように足を動かすだけだった。先生に聞きたいことはたくさんあったけれど、後ろ姿からもわかる、彼の かたくなな雰囲気がそれを許さない。
やがて職員室に向かうと思われていた先生の足は、分岐点で職員室とは違う方向を選ぶ。この道順だと、おそらく向かう先は職員用の駐車場だろうか。先生は車で帰るつもりなのだろうか。準備室の鍵も返さず、荷物も持たず……私を連れたまま。
いつか先生の車の中で過ごした、あの苦い夜を思い出す。先生の様子がおかしいことはわかっていたけれど、私はこの事態を喜んでしまっていた。
そうしてたどりついた扉の前、立ち止まった先生。多分この扉は校舎の外、駐車場につながっているはずだ。私の期待を裏切って、先生の手はそこで ついに私を開放した。自由になった自分の腕。なにかを失ったような気持ちで、私はななめ後ろから 再び先生の後ろ頭に視線を投げてみる。
彼は私を連れてきておいて、振り向く気配もない。背中を私に向けたまま、扉の手前にあった 先生達用らしき靴箱から靴をとり、履き替えて。先生が扉を開けて出ていくので、一瞬ためらったけど、私も置いていかれまいと 上履きのまま後に続く。
扉は、予想通り校舎の外につながっていた。開ける視界、夕暮れの空気。生徒はあまり来ることがない、職員用駐車場。並んだ車の中の一台が目にとまり 私ははっとする。見覚えがあった。いつか私も乗せてもらった、先生の車だ。
先生の足はその車めがけて歩き出し、車の運転席のドアの前で立ち止まる。少しの迷いの後、私は助手席側に移動した。ようやくそこで、私は車を挟んで反対側に立つ 先生の顔を見ることができた。無表情――やっぱり、その感情は見えない。
先生は手に持っていた準備室のカギを、ポケットに入れてしまった。ちゃり、と先生のポケットが小さな音を奏でる。そして先生は同じポケットから、車のカギらしきものを取り出した。いつも持ち歩いているのだろうか。直後、小さく音を立てて、ドアのロックが解除される。慣れた動作で、先生がドアに手をかけた、その瞬間。
「待てよ」
さっき出てきた扉のほうから、とげのある声が飛んできた。反射的に、私も先生も声の方向へ視線を向ける。タカシが眉間にしわを寄せ私たちを見ていた。