第四章 “Love For love”〔4〕
書類を持っていくという口実ができて、私は足取りも軽く英語準備室に向かう。今日は拒絶される理由もない。私は用事があって、先生のところに行かなければならないのだ。
先生と二人で会うのは、掃除をさぼった日以来だ。先生にキスをされそうになった日先生に対してどんな態度をとっていいか分からないけれど。
もやもやした気持ちが取れないから、だからこそ先生に会いたいのだ。教室の授業とか、学祭の打ち合わせとか、そういう不特定多数の生徒としてじゃなくて。ふたりだけで話したい。それが義務的な話だけだってかまわない。
けれど私の軽い足取りは長くは続かなかった。英語準備室の近くまで来たとき、部屋の中から話し声が聞こえてきたのだ。聞こえてきたのは先生の声と、女の子の声。それも女の先生とかじゃなく、女子生徒のようなのだ。いけないことと思いつつも、足音を忍ばせて扉の前で耳をすませる。するとはっきり聞こえてきた声に、私は息を止めた。
可愛らしさを意識したような、独自のイントネーション。あの自信に満ちた話し方、間違うはずがない。声の主は、更木さんだったのだ。
「先生は、彼女いるんですか?」
扉の向こうで、彼女が問いかける。いつか私が投げかけた質問と同じだ。心が重くなった。そんな質問をするなんて、好きだと告白しているも同然なのだ。
「……君に関係のある話とは、思えないけどね」
対する、先生の冷たい声。こんなことを思うのは性格が悪いかもしれないけど、先生の冷たさがうれしかった。
誰に対しても平等に冷たい先生。更木さんだって例外じゃない。しかも先生は私に恋人はいないと教えてくれたのだ。勝ち誇ったような気分が私を支配していく。そんな陳腐な理由だけが、唯一の私の支えだった。
「いえ、関係あるんです。だって私、月原先生が好きなの」
彼女のその一言で、また私は窮地に追い込まれていく。でも一方で、心のどこかで安心していた。
私は知っているのだ。生徒の告白に対する彼の答えを。センセイとしての答え方を。センセイ、生徒、その間にある強固な壁を見せつけ、付け入る隙すら与えない。徹底的に冷たい、彼の拒絶を。
予想通り、扉の向こうから先生のため息が聞こえた。
「君は俺に何を望むんだ? 教師に対してそんな事を言っても、無意味だとわかるだろう」
「好きでいさせてください。私、振り向かせて見せるから」
冷たい先生の態度をものともせず たたみかける、更木さんの自信に満ちた声。
更木さんは、強いんだ。きっと私なんかよりずっと。迷いなく思いをぶつけている更木さんと、それをこそこそ影で聞いている私と。この状況からすでに負けているようで空しかった。
「そんなことなら、別に俺に許可を求めることはないだろう? 君がどう思おうと君の勝手だ。俺は君の心の中にまで干渉するつもりはない」
頭を強く殴られたときのような衝撃だった。ショックだったのだ。冷たくあしらって、拒絶してしまうだろうと思っていた。だけど、私の時とは違っていた。まるで、想いを受けとめてあげるような態度。
――どうして。
「好きでいていいんですね? 今の言葉、忘れないでくださいね」
彼女のうれしそうな声が、私を追い詰めていく。余裕をなくした私の耳には、それからの二人の会話は全く入ってこなかった。
やがて、失礼します、という彼女の声と部屋から出てくる気配。私はあわてて近くのトイレに隠れた。そして彼女が通り過ぎた後、トイレから出る。
……私は何をしているんだろう。なんだかやるせない気分で、もう帰ってしまいたかった。でも手に持っている書類が邪魔をする。先生の顔を見たいがために手にした書類なのに、今となっては後悔するばかりだ。
仕方なく英語準備室の扉の前に戻る。ノックするのには勇気が要った。私は自分を鼓舞してここにやってきては、些細なきっかけでためらってばかりだ。こんなことじゃ、更木さんに負けて当然だ。無償に泣きたくなった。
書類を扉の前に置いて、帰ってしまおうか、なんて、この場から逃げる選択肢ばかり考える負け犬のような私。そんなことでは駄目だとわかっている。逃げたら終わりだとわかっている。わかっていてもどうすることもできず、私はノックもできない扉の前にただ立ちすくむ。
――その時、急に中から扉が開いて、私は心臓をつかまれたかと思うくらいどきりとした。
本格的に活動再開ということで、長いこと止まっていたこの小説を、本気で完結させようと思います。
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あまり目立たず地味な小説ですが、読んでくださる方がいる限り、一生懸命頑張ります。
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