第四章 “Love For love”〔3〕
「静かに。話し合いを始めるから」
その声を聞いて、私は弾かれたように声の主を見た。姿を見ただけで、心臓が大きく鼓動を始める。自動的に。まるで決まったことのように。
私はそこでようやく、ユキが私に実行委員を交代したがった理由を理解することになった。
「学祭のことだけど、俺が担当ということになった。……まぁ、よろしく頼むよ」
にこりともせず教室を適当に見渡した後、月原先生は面倒そうにそれだけ言った。一瞬目が合った気がしたのは、きっと私の気のせいだろう。
「それで、実行委員の代表を決めないといけないのは、みんな知ってると思う。――誰か、立候補は」
先生は教卓の横にある椅子に気だるげに座って、さっそく本題に入った。教室がしんと静まりかえる。代表になれれば近づけると、サラキさんは言っていた。きっとあの子の想いは、私と一緒なんだ。
だからあの子には代表になって欲しくないと思った。私だって代表になって、先生に近付きたい。だけどしんとした空気の中、手をあげる勇気が私にはなかった。すぐに手をあげると思っていたあの子が、手をあげていないことにひるんで。何もできずにいると、とうとう恐れていた事態が起きた。
「はい」
落ち着いた声で、小さく微笑みすら浮かべて。手を挙げたのは、予想通りにサラキさんだった。その微笑みが何だか勝ち誇ったような、というか、余裕すら感じさせる笑みで。
その笑みを見ながら、私を後悔が襲う。すぐに手をあげればよかったのに、そんなこともできなかった。月原先生はちらりと手をあげているサラキさんを見ると、立ちあがって黒板の前に立ち、チョークで字を書き始める。
「代表、更木……ね。誰かほかに立候補する者は?」
お決まりの淡々とした口調で言いながら、先生が黒板にサラキさんの名前を書き終わった。先生はサラキさんの名前を知っていた。そんな小さなことで簡単に落ち込んでしまった私は、もう手をあげる意欲さえなくしてしまった。
すでに決まったも同然の空気が流れている。タイミングを逃したのだ。今さら手をあげても空気を悪くするだけだろう。
「じゃ、代表は更木で決まりにしておくから。……そうだな。山田、後は頼むよ」
教室を見渡した先生が、山田君という生徒に目をとめて言った。言い方から、このあとはその山田君に任せたいということみたいだった。
「えー、センセー、何でオレ?」
山田君という人も先生の言わんとすることを読み取ったのか、不満な声で抗議した。だけどその表情は少し笑っている。彼の人柄がなんとなくわかった。先生もわかっていて彼を指名したんだろう。
「教師がいると話し合い辛いだろう? あとは生徒の間で、適当に係決めて帰っていいから」
上手い具合に言い訳して、先生は書類を山田君に渡す。多分、あの書類に係のことが書いてあるんだろう。
先生が教室を出ていくと同時に、教室がじわじわとざわめきを取り戻す。教師がいると話しづらいという先生の言い訳は、あながち外れてはなかったのかもしれない。
半ば投げやりな気分になってしまった私は、仲の良い生徒たちがお互いに席を立って相談しながら次々と係を決めていくのを、ぼんやりと眺めていた。
山田君を中心にして、黒板に係と名前が書かれていく。係の決まった人から教室を出て行って、一人ひとりと、教室に居る人数が減っていく。最後に残ったのは、知らない女の子三人組と、私だけだった。その三人組も係を決めてしまったみたいで、必然的に私はあまった係を引き受けることになる。
「あの……この係でいい?」
三人組の中の一人の子が、遠慮がちに私に声をかけてきた。その子が差し出してきた書類を見てみると、あまった係は図書整理だった。
予想通りだ。うちの学校は文系に力を入れている。だから学祭では論文等の一般公開を受け持つ図書整理係が一番大変になる。そのことは皆んな知ってるから、誰もが避けて余ったんだろう。それを私に押し付けるような形になったのが気まずかったのか、三人組は少し困ったような表情で私を見ていた。
「うん、いいよ」
にこりと笑って、私は書類の図書整理の欄に自分の名前を書いた。仕方がない、黙っていた私だって悪いのだ。そんな私をほっとしたように見ている三人組の中の一人が、ふと思いついたように言った。
「ねぇ、この書類さ。もしかして先生のとこに持ってかないといけないんじゃない?」
確かにそうだ。先生は何も言わなかったけれど、生徒が持って帰るわけにも、ここに置いていくわけにも行かない。残りの2人もその一言で気づいたらしく、えー、と迷惑そうに声をあげている。
三階のここ教室から、職員室までは近くはない。それに誰だって職員室なんて場所にはなるだけ行きたくないものだ。届けるだけと言っても、面倒なことには変わりない。
「だいたいさぁ、みんな勝手だよね! さっさと決めて出てってさー。山田が行くべきだったんじゃない?」
一人が声を上げると、それを合図にしたように色々な人たちの悪口が始まった。私は陰で好き勝手に囁かれる悪口が苦手だ。
「あの、私が持っていこうか?」
三人は顔を見合わせてから、でも……、と遠慮がちに私を見やる。見ず知らずの私に、簡単に甘えられないんだろう。
「ちょうど、先生に用もあるから」
言って書類を握った。私にしてみれば好都合だった。それにささやかなことだけど、更木さんに勝ったような気がしたのだ。係りが決まって安心しきって、最後まで残っていなかった更木さんは、チャンスを逃したのだから。
はやる気持ちを抑え、駆けだすようにしてその部屋を出た。