第三章 “Look My Heart.”〔7〕
心臓が一度、これ以上ないほど大きく鳴り響いた。そこで一瞬止まってから、またじわじわと鼓動を再開する。
驚きのあまり混乱する頭は、即座に判断力を失った。私は身動きも、瞬きすらできず、あっけにとられたようにただ、彼を間近で見つめてしまった。ありえないくらいの至近距離で、冷静な彼の瞳が私をとらえる。
「……っ!」
声にならない悲鳴が出た。そこでやっと我に返り、慌てて体を離す。どう対処したらいいのか、なんと言ったらいいのか、全くわからない。思考もまとまらない。落ち着いて考えることもできそうにない。
考えなしの行為だった。後先考えず、ただ気持ちのまま先生にキスをしようとした。こんな事態になるなんて予想もしていなかったのだ。
とても寝起きとは思えない動作で、先生はベンチから体を起こした。そして、ほんの少し口角を吊り上げ、身を強張らせるだけの私をじっと見た。
「……何、してたの?」
瞬間、かぁっと顔に血が昇った。途中で起きたのかもしれない。寝てはいなかったのかもしれない。どちらにしろ、先生は気づいていたに違いない。動揺を深める私とは対照的な、先生の落ち着き払った態度が悔しい。
陰で先生なんて好きになるはずない、なんて言っていたくせに、寝込みにキスをしようとする。軽蔑されてもおかしくないのに、彼にはその気配もない。彼は全く動じていない。私では彼の心は動かせないのだろうか。でも昨日は確かに、彼の瞳に違和感を見つけたのに……。
先生は大人だし人気があるから、キスなんてどうってことないのかもしれない。だけど恋愛初心者の私にとっては、キス一つとってもすごく勇気がいるし、未知の世界だ。
経験の違いを見せつけられたみたいで、それが余計に恥ずかしくて、悔しくて。お子様だと思われたくなかった私は、精一杯に虚勢を張った。
「子供でも……、生徒でも、キスくらいできるんです」
「キスくらい、ね……」
私の台詞をどう受け取ったのか。先生の瞳がかすかに揺れて、それまで見えなかった冷たい色があらわになる。驚いた私は、固まったように目がそらせなくなってしまった。
「先生……?」
何を考えているのかはわからないけれど、ただひとつはっきりしていることは、今の彼は彼らしくないということ。いつも冷静で、冷たく無機質な雰囲気で、何事にも動じず、感情を表に出さない。それが彼だ。
だけど今、目の前にいる先生はなんだろう。まるで“感情的”な――
混乱を深めていく私をよそに、先生が立ち上がって私の前に立った。私が反射的に先生を見上げようとしたその時、突然先生の手が私の肩に伸びたかと思うと、ぐいと押され、そのまま乱暴に近くの壁に押し付けられた。
壁に背中を打ちつけて、軽い痛みに顔をしかめる。何が起こったのか、よくわからなかった。でも先生の顔が、さっきキスをしようとした時と同じくらい、すぐ近くにあって。それに気づいた瞬間、私の心臓が急激な鼓動を始める。
顔の両側にある先生の両腕に拘束されて、身動きができない。ドラマとか映画とかで、こんなシーンを何度か見たことがある。私だって恋愛経験はなくても一応女の子で、画面の前で、わくわくしながら見ていた。
だけどそれはあくまで、他人事だったから。実際その状況に自分が置かれてみると、あまり心地いいものじゃなかった。だってこんなの、まるで現実感がない。呼吸の届きそうな距離で、息をすることすら勇気がいる。ひたすらに背中にある壁に貼り付くようにして、私はなすすべなく立ち尽くす。
精一杯な私のことなんてまるでお構いなしとばかり、否応なしに、眼前に先生の顔が迫ってくる。
キスされる。とっさに悟った私の心臓が、痛いほどにうるさくなって。息もうまくできなくなって。自分が自分でなくなるくらい、頭の中がごちゃごちゃになって。私は、思わずきつく目を瞑った。
気持ちの渦に飲みこまれてしまいそう。怖いのに、いとしい。私は、こんな自分を知らない。
けれど、困惑しながらも期待した先生の唇は降りてこなくて。恐る恐る目を開けると、そこには苦い笑い方をした先生が。
「……まだ早いだろう? 神島には」
複雑な表情だと思った。何か言いたそうな顔、でも何も言わない先生。対する私も、様子のおかしい先生に言いたいことはたくさんあったけど、上手く声を出せなかった。
そんな状態が続くはずもなく、すぐに私は解放された。先生は何も言わず、私も戸惑うばかりで、二人の間に距離が生まれる。それは実質的なことだけじゃなく、気持ちの距離のことでもあって。近づいたと思ったら、遠くなる。簡単な恋じゃないのは、先生という人自体が簡単な人じゃないから。
先生はそのまま私に背を向け、新校舎に戻る道へ向かっていく。
また私を置き去りにするのだ。引き止めたくて口を開こうとしたけど、肝心な声を出すことはできなくて。彼の背中が遠くなっていくのを、私はまた見送るだけ。
先生に恋をしてから、私は後ろ姿ばかり見ている気がする。だけど気のせいだろうか。今日はその後ろ姿が、少しだけ寂しそうにも見えた。