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第三章  “Look My Heart.”〔5〕



「麻耶。ちょっといいか?」


 準備室で二度目の苦い思いを味わった次の日。放課後になってすぐ、機嫌の悪いタカシがまた私の教室までやってきた。連れられるまま無言のタカシの後をついていき、たどり着いたのは三階の美術室の前の廊下。美術部はもう活動してないし、そのとなりも教材を置いた倉庫があるくらいだから、放課後になると特に人通りが少ない。


「月原のことだけど。昨日また会いに行っただろ」


 タカシは私を責めるような目をして、黙っている私に畳み掛ける。


「昨日教室を出てすぐ足音が聞こえて、振り向いたらお前が血相変えて走っていくから、追いかけた。行き先が分かって引き返したけど」

「……」

「あいつが好きなわけ?」


 バレているようだけれど、私も簡単に認めるわけにはいかない。


「違う」


 私の言葉を聞いた瞬間、タカシがあからさまに眉をひそめた。


「……ふーん。また質問だとでも言うわけ」

「そうだよ」

「あのさ。隠さなくていいから」

「隠してなんて……」

「オレ、麻耶のことはそれなりにわかってるつもりだけど? 誰を見てるか、すぐわかったしね。……ただ黙って見てるなんてできねーよ」

「……」

「あいつも迷惑してるんじゃねーの。あんなそっけない奴、どこがいいんだよ」

「私が先生を好きでも、そうじゃなくても。タカシに先生のことを悪く言う権利なんかないでしょ?」


 強く言い返すと、タカシの表情が突然、今までにないくらいに険しく歪んだ。それなりに長いこと一緒にいるけど、こんな顔を初めて見た。


「ああ、そうかよ」


 いつもより低い声。怖いと思った。幼馴染と言ってもタカシももう、それなりに一人前の男の人だ。今まで男の人に、不快な感情をこんなにあからさまに向けられたことなんてなかったのだ。


「じゃあ言わせてもらうけど。生徒に教師を好きになる権利があるのかよ。問題にでもなったら、お前もタダじゃすまねーよ?」


 タカシは私が言われたくないことを、わかっているくせに平気で強く指摘してくる。私が何も言い返せないのを、わかっているくせに。私が唇をかみしめたその時。


「オレは麻耶が好きなんだよ」


 タカシの口から出てきたのは、話の流れに合わない、突然の告白だった。私が驚きに目を見開くのと同時に、階段を上ってくる足音が近づいてきた。誰だろう。生徒だろうか。タカシにも聞こえているはずだけど、声をひそめるそぶりも見せない。


「教師を好きになるなんて馬鹿みたいな真似、もうやめろよ。麻耶らしくないだろ」


 両肩を掴まれて、私の顔を覗き込んでくるタカシから、目を逸らすことしかできない。馬鹿みたいな真似、そんなこと言われなくてもわかってる。望みのない恋。簡単じゃない恋。苦い気持ち。だけど簡単にやめられないから苦しいのに。タカシは何もわかってない。こんなに強く迫られたって、私には応えることなんてできないのに。


 タカシの告白とか、センセイを好きになることについてとか。考えることはたくさんあったけれど、どんどん近づいてくる足音が気になって仕方なくなってきた。


「タカシ、誰か来る」

「関係ねーだろ」

「でも……」


 話の内容を聞かれてしまったかもしれない。握りしめた手が汗ばむほどに、焦りはピークに達していく。うわさになるかもしれない。ここで否定しないとだめだ。先生には絶対に迷惑をかけたくない。


「離して。先生のことなんて、好きになるはずないでしょ!」


 声のトーンを大きくして、私がきっぱりと言い放った時。タカシの表情が驚きに変わり、その視線が私の後方に向かっていくので、私もつられて振り返る。タカシの視線をたどり、私の背後、少し離れた場所に立っていた人物を認識した瞬間、私の心に大きな衝撃が走った。


 どうして。どうしてこんな場所に、このタイミングで。


「月原……」


 絶句する私の代わりに、タカシがその人物の名前を呼んだ。タカシもさすがにセンセイの前で私に迫ることはしないようで、私の肩から手を離し、距離を取った。そして私もタカシも先生を向く。


 先生はしばらく何も言わないまま、そんな私たち二人を見ていた。相変わらずの無表情は、決して崩れない仮面のよう。だけど何の反応も示さず、人形のように立っている彼は、どこか不自然だった。


「先生……?」


 一瞬の沈黙を破り、私は恐る恐る、黙りこんでいる先生に声をかける。するとまるで今気付いたように、先生がふっと私を見やった。


 一見して、彼の様子に変わったところなんてない。無表情も、熱を持たない瞳もそのまま。だけど好きだからこそ、私にはわかるわずかな違和感。


 いつもの彼は完璧だ。完全に心を隠して、決して生徒になんて立ち入らせない。けれども今、彼の瞳に隙が生じているように見えるのだ。きっと他の誰が見ても気がつかないほどの、ほんのわずかな違い。いつも通りのようで、そうじゃないような彼に、私は戸惑いを隠せない。


「ああ……悪いね。邪魔するつもりはなかったんだけど。まさか放課後ここに生徒がいると思わなかったんでね」


 先生は冷静な声音で言って、その視線をタカシに移してしまった。


 さっき沈黙していた先生は、呆然としているようでもあり、いつもと違っているように感じたけど。それも一瞬だけのことだったようで、わずかに感じた違和感も、もうどこかへ行ってしまったようだった。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。そう思わせるほど、彼はいつもどおり、平静そのものだ。

 

「わかってんならさ、さっさと行ってくんない。これ以上野暮な真似すんなよ」


 タカシがどこか挑戦的な声音で先生に向かって言った。無礼なタカシの態度を特にとがめようともせず、先生はふっと声もなく笑う。 


 その心の中、いったい何を思っているのか。決して他人を立ち入らせない、冷めた笑い。そして何も言わないまま、先生は倉庫に入っていくと、難しそうな分厚い英語の資料を二冊持って出てきた。私の横を素通りして、階段へと戻っていく。


 誤解したまま行かないでほしかった。違うのだと先生に訴えたかった。先生、と引きとめる声が喉まで出かけたけれど、私は寸前でそれをのみこむ。


 引き止めて一体何ができるだろう。何をどう言い訳すると言うのだろう。彼は言い訳なんて聞いてくれるほど優しくない。そもそも私の言ったことになんか興味もないかもしれない。

 

「あいつ、さ。どんな反応するのかと思ったけど……結局、フツーだったよな」


 やるせない気持ちで後ろ姿を見送るしかできなかった私に、とどめとばかり、タカシがそんなことを言ってきた。ほら見ろ、とでも言わんばかりの態度。


「オレたちは昔から一緒だったんだし、お前にはオレしかいないんだよ。今さらあんな奴にすることないだろ」


 上機嫌なタカシと正反対の、沈んだ私。


 必死に気丈に振る舞って、傷付いていないふりをしてるのに。先生の前で“強く想える自分”を、必死に保っているのに。想いは空回りして、先生の心がより遠くなる。


「ごめんタカシ……ちょっと一人にして」


 隠せない動揺がそのまま流れるように、声が震えてしまった。泣きたい。でも泣けない。タカシは私の顔を見て一気に不機嫌に戻ってしまった。


「なんだよ、オレはお前のため……ああ、くそっ」


 顔を歪め、舌打ちしながら乱暴に言い捨てると、しぶしぶと階段に向かっていった。私はさっき先生にしたのと同じように、タカシの背中を黙って見送る。


 まさか先生が、こんなところに来るなんて。そういえば先生はずっと残って仕事をしていたし、何か資料をまとめているみたいだったから、倉庫の教材が必要だったのか、なんて。そんなどうでもいいことを妙に冷静に考えてる自分に気づいて、笑えるような状況じゃないのに笑えてくる。


 誰もいない廊下にひとり立ち尽くす私の脳裏から、先生の後ろ姿だけが、ずっと消えてくれなかった。



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