第三章 “Look My Heart.”〔4〕
先生の口からそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。体よく追い払われるのが当然の流れのはずだ。驚いたまま先生の顔を見上げると、先生の方もふとした顔をしていた。無意識に出た言葉、そしてそれが自分でも意外だった、そんな感じだ。きっと私に優しくしてやるつもりだったわけじゃないんだろう。
……けど、その意味は何だろう。先生の中に押し込められた優しさの部分が、さっきの言葉になって出てきたのだろうか。
先生は気を取り直したように、また無表情に戻った。そして動揺する私を置いて部屋の中に入って行き、いつかと同じように机について仕事を始めた。
どうしていいかわからずに、部屋の入り口で、開いた扉の前に立ち尽くす私のことなんてまるでお構いなしだ。でもこのまま扉をあけっぱなしで突っ立っているわけにもいかない。仕方なく、私はおずおずと中に入り、扉を後ろ手に閉めた。部屋に入ってみたはいいものの、先生は黙って仕事をしているのでどうしようもない。
とにかく、このまま立ち続けているのも気まずい。部屋を見回してみると、隅の方で壁に立てかけてある折り畳み式の椅子が目に入ったので、私はこれ幸いとそれに座ることにした。
椅子は、動かしただけでぎしりと音がした。相当年期が入っているようだ。音を立てないようにそっと座ったけれど、しんとした部屋では椅子のきしむ小さな音でも妙に目立った。
その音に反応して、先生がちらと目だけで私を見たけれど、また何事もなかったかのように書類に視線を戻されてしまった。
私は座ったまま、無言で先生を見る。さらさらと書類にペンを走らせている先生。どんな字を書くんだろう。黒板に書いている字とはまた違うだろうか。
見てみたいけれど、ここからじゃ見えない。少し離れた場所に座ってしまったのだ。もう少し近くまで椅子を持って行って座ればよかったと後悔する。
あの夜の車の中と同じように、無言でゆっくりとしたような時間が流れていた。そうして、五分くらいたってからふと思う。中に入れとは言われたものの、私はここに座っていていいのだろうか。先生は仕事中だ。もしかしたら邪魔になっているかもしれない。
「あの、」
「何?」
小さく声をかけたけど、先生は手を止めず顔もあげず、声だけで返事を返してきた。私がいてもいなくても、先生にとっては変わらないのかもしれない。だったら、自分から出ていくことを言い出すことはないじゃない。一分でも一秒でも長く、ここにいたいんだから。
「いえ……なんでもないです」
私が言うと、先生はまた無言に戻り仕事の手を進める。こんな風に冷たいようで、でもさっきは泣いている私を部屋に入れてくれた。優しいのか、そうじゃないのか。先生は、全然わからない。
「落ち着いたら、帰っていいよ」
また数分たってから、先生が沈黙を破り淡々とした声で言った。一応、帰っていいという言葉を使っているけど、まるで帰れと言いたげな言い回しだった。涙なんてとっくに止まって、すでに落ち着いている。ずるい言い方だ。教師の建前だけは守ろうとしている。だから生徒である私を、あからさまには突き放さない。
「もう少し……ここにいていいですか?」
「なんで? 何か用があるなら、早く済ませてもらった方が助かるけど」
必死にこの二人だけの空間を守ろうとする私を、いとも簡単に切り捨てる先生。その瞳の色はやっぱり冷たいもので、さっきちらと見せた優しさのようなものなんてみじんも感じさせなくて。
目の前に居るのは、自然すぎるほどいつもの先生で。表情のない彼の、心の中が見えない。私は一瞬、質問しに来たと言い訳しようかと思った。そうすれば、先生にうっとうしい生徒だと思われずに済むと思ったから。
けど、そうやって嘘をついて、取り繕って。私がそんなんじゃ、先生の心には永遠に近づけない。先生の瞳を見据え、私はたどたどしく、けれど懸命に言葉を紡ぐ。
「そうじゃなくて……何も、用なんてなくて……ただ、」
途中で言葉を切ったのは、心の中にある臆病な気持ちを、まだぬぐい去ることはできないから。だけど今、必要なんだ。自分をさらけ出す勇気。
今までずっと、学校ではうわべだけの優等生を演じてきた。友達関係だって似たようなもの。特定の仲のいい友達以外には、人当たりよくそつなく接してきた。嫌われないように、上手く付き合っていけるように。けれどもそれだけで心が通じ合えるほど、人というのは簡単じゃないのだ。特に今目の前にいる、センセイという建前を決して捨てようとしないこのひとは。半端な私でぶつかっても意味はないから。
「会いたかった。先生の顔が見たかった。それだけ、です」
私の言葉に反応し、先生のペンを持つ手が止まった。けれどそのままペンを置くことはなく、先生は静かに口を開いた。
「どうして俺なんだ? 教師で面倒なだけで……ほかに男なんてたくさんいるだろう?」
「好きだからです。それ以外に理由がありますか?」
迷いのない声で言った言葉は、今の私にできる精一杯。ただ、好きだって言う気持ちを伝えること。何度でも、伝え続けること。それは簡単に見えて、すごく難しいことだ。
「……わからないな」
ぽつりと、呟くように先生が声をもらした。わからない、なんて。一度でも本気で誰かを好きになったことがあるなら、恋愛感情は理屈じゃないってことくらいわかるはず。
最初は、生徒のくせにセンセイに告白する私のことを軽蔑して、わざと言っているのかと思った。だけど先生の顔を見て、私は驚いてしまった。先生は、本気で理解できない、と言いたげな目をしていたのだ。
「わからない……? 本当にわからないんですか?」
そんなはずはない、と思いつつ、戸惑う声音で私は問いかける。先生は大人なのに。だけどもしかしたら、大人とか子供とかやっぱり関係ないのかもしれない。私もずっと知らなかったのだ。あの日旧校舎で、先生に会うまで。誰かを好きになる、ということを。
「“どうして”とか“なんで”とか、そうやって理由づけできるうちは、本物じゃないと思います」
私の言葉を聞いて、今度は先生が驚いたような目をして私を見た。瞳をそらさずに、私は続ける。
「人を好きになるってことは、そういうことだと私は思うんです。この前まで、知らなかったけど……先生が教えてくれたんです」
私の言葉を受けて、真顔をした先生の唇が、何かを言いたげに少し開いた。けれど結局、その口から言葉が発されることはなかった。彼がいつものように無言になると、準備室が静まり返る。
少しは、伝わったのだろうか。静寂の中先生の様子をうかがってみるけれど、無表情の彼から何かを読み取れるはずはなく。
けれどさっきの反応は、気のせいかもしれないけど、いつもの先生とどこか違っていたように思えた。
「俺は授業の内容以外、何も教えてないけどね」
先生は私の目を見ることなく、再び書類に視線を落として、そんなことを言った。
むっとした。私は本当に真剣だったのだ。こういう、あからさまなごまかされ方は嫌だ。それに、先生らしくないと思った。いつもなら、もっとうまくかわすのに。
「そういうことじゃ……!」
身を乗り出して抗議しようとする私に最後まで言わせず、先生が言い放つ。
「帰ってくれないかな。……君と居ると、何か……」
そこまで言いかけて、先生は我に返ったように言葉を止め、気難しい顔をして口元に片手をやった。言葉に詰まったとも、戸惑っているともとれるその仕草。そんな先生の様子を見て、一瞬放心してしまった。私がいてもいなくても、先生にとってはどうでもいいことじゃなかったの?
「私と居ると――、なんですか?」
どうしても言葉の続きが知りたくて、私は思わず立ち上がりながら、先生に問いかける。だけど先生は私の目を見てくれない。故意にそらしているようにすら見える。
「神島。悪いけど、帰って」
そうして、さっきと同じ言葉を投げつけてくる。ここで引いたら、この前と同じだ。私がいくらぶつかっても先生は逃げて行って、永遠にこんなやり取りを繰り返すだけ。
「先生。気持ちに応えてくれなくてもいいんです。でも、逃げないでください」
「逃げる? 何を言って……」
私の言葉を聞いて、先生はまるで嘲るようにふっと声もなく笑った。気のせいかもしれないけど、彼の瞳には、相変わらず戸惑いのような色がかすかに見え隠れしている。
「先生はわかってない。子供だって、本気の恋をするんです」
私がそう言うと、先生は何も答えなかったけど、やっと私の目を見てくれた。お互いがお互いの主張を曲げられない。私も先生も真顔だったけど、まるでにらみ合いでもしているような重い空気の中に沈黙が流れた。私がもう一度、たたみかけようと口を開きかけたその瞬間。
『月原先生、月原先生、至急職員室まで』
タイミングよく、そんな校内放送が流れた。間の抜けた教頭先生の声を、今ほどうっとうしく思ったことはない。
「――呼び出しだ。悪いね」
思ってもないくせにそんなことを言いながら、立ち上がった先生は、さっさと私の横をすり抜けて扉に向かっていく。
もう慣れたようなこんな場面。掴めない彼の心が途方もなく遠く思えた。胸の痛みに耐えかねてぐっと拳を握りしめる。私はまだ全然強くなれていない。生徒という立場で、センセイへの想いを貫き通せるほどには。
今はまだただの強がりでも、これから強くなるから。先生という存在が、先生への気持ちが、きっと私を強くするから。
「先生!」
私は先生を振り向き、呼び止めた。扉を開けて外に出るところだった先生は、私に背中を向けたまま立ち止まった。
「早く帰りなさい」
私に何か言わせる隙も与えずそう言うと、振り向くことなく彼は出て行った。
こんなやるせない気持ちを、どう表現したらいいんだろう。恋なんて、甘くてふわふわして幸せで、満たされるばかりのものだと思っていたのに。