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第三章  “Look My Heart.”〔3〕




 告げた想いが先生の心まで届いていないとしても、ただ、伝えられたことが嬉しかった。


 土日を挟んで、今日はやっと月曜日。先週の金曜、先生に想いを告げて、そのまま休みに入って。二日間ずっと、顔が見たくて、声が聞きたくて仕方なかった。学校が休みだと本当につまらない。


 休み時間はあと五分。次は彼の授業。教科書を机の上に並べながら、私はこっそりとほほ笑んでいた。


「麻耶。今日はやけに機嫌いいじゃない?」


 ふと背後から声をかけられて、振り向く。するとユキがにやにやと笑いながら私の顔を覗き込んでいた。今まで経験したことのない微妙な気恥かしさを感じて、私は少し複雑な気持ちで苦笑いする。


「それが恋ってことだよ。よかったね?」


 満足げに微笑んで、ユキがからかうように言う。こういうからかいの対象になったのは初めてで、どう反応していいかわからない。返す言葉を探していると、その前にユキがまた口を開いた。


「で? どうだったの。金曜日は」


 興味津津という感じだった。その表情は期待に満ち溢れているというか、上手くいったと信じ切っている。そんなユキにはちょっと申し訳ないけど、私は笑顔であっさりと返してみる。


「うん、ふられた」


 私の言葉に、ユキが怪訝な顔をした時、ちょうどチャイムが鳴った。休み時間で席を離れていた生徒たちは、それを聞いてもすぐには席に戻ろうとしない。次の授業をするはずの彼が、必ず遅れてくることを知っているからだ。けれど、いつもそうと限ったことでもなかったようで。


「麻耶、なんでそんな――」


 ユキが言いかけたところで、突然教室の扉が勢いよくスライドしたものだから、教室にいる生徒達の大半が驚いた。空いた扉から顔を出したのは、やっぱり彼。誰にとっても予想外の出来事に、誰もが慌てて席に戻っていく。


 いつも10分は遅れてやってくる先生。その先生が、こんなに早く教室に入ってくるなんて初めてかもしれない。それでも時間ぴったりに入ってくるわけじゃない所が、やっぱり月原先生という感じだけれど。


「授業始めるぞ。席につけ」


 いつも通りの言葉を発した彼は、慌てる生徒たちと対照的に落ち着きはらっていた。そして彼はいつも通りに教卓に教科書を開くと、いつも通りに何の前振りもなく授業を始めるのだ。


「この前出していた課題を……佐々木の列。佐々木がカッコ1番、その次の奴が2番。最後が5番。それぞれ、黒板に英訳を書いてみろ」


 生徒たちが全員席についてしんとしたところで、先生は思いついたようにそんなことを言った。佐々木君は、私の列の一番前の席だ。必然的に私も黒板に英訳を書かなければならない。私の問題番号は、4番。私は課題をきちんとやってきたけれど、やっていない人もいるようで、教室がわずかにざわめく。そのざわめきの中、私は席を立ち、ノートを持って黒板に向かう。私に続くようにして、二人が席を立ち上がった。


 先生は黒板の脇にある椅子に座って足を組んで、その視線を教科書に落としている。


 黒板の溝からチョークを一本取って、恐る恐る答えを書いていく。黒板に向かっていても、私の意識はすべて、斜め後ろに居る彼に向かっていた。チョークを持つ手が、緊張でこわばる。


 彼は私を見てなんかいない。けれど彼は、そこに居るというだけで、こんなにも私の心をかき乱す。


 やっとの思いで書き終わって席に戻った。全員が書き終わって席に戻りしんとしたところで、先生は気だるげに立ち上がり、黒板の前まで来て解説を始める。


 赤のチョークを持った先生の指。それがやがて私の書いた文字の上にも赤の字で修正を加える。そんなことにいちいち胸を躍らせているなんて、やっぱりなんて子供の恋。


 こんなときに思い知るのだ。彼は遠いひとで、手の届く距離にいる人じゃない。彼を相手に、簡単な恋なんてできそうにない。

 でも、遠いなら私から近づくだけだ。先生を知るために。私の心を知ってもらうために。俯き加減で考え込んでいると、ふと名前を呼ばれた気がして、私ははっと我に返り顔を上げた。


 するとクラスの全員の視線が私に注がれている。どうしたことかと瞬きを繰り返していると、先生の呆れた声が飛んできた。


「神島、聞いてたか?」


 瞬時に、顔がかっと赤くなった。先生に注意されていたんだ。全然気がつかなかった。すいません、と消え入りそうな声で言うと、先生はそれ以上何も言わず、授業を再開した。


 自己嫌悪の嵐。他の先生の授業なら気にしないけど、よりによって月原先生の授業で。けれど授業が終わった休み時間、私の所までやってきたユキの口から、思いもしない言葉が出てきた。


「ねぇ、月原先生さぁ。麻耶のこと気にしてるのかな」

「……えっ?」


 あまりに予想外、というか見当外れのようなその言葉に、私は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。そしてそのまま苦笑する。そんなことがあり得るはずがない。きっぱりとふられたばかりなのだ。ユキがどうしてそんなことを思ったのかさっぱりわからない。


「何それ? そんなことあるわけないじゃん」


 私は軽く流そうとしたけど、ユキは引き下がらなかった。


「でも! 珍しい、ってか初めてじゃない? 彼が生徒に注意したりすんの。授業サボってるやつとかいたって、どうでもよさげに流しちゃうじゃない」


 はっとした。言われてみれば、確かにそうかもしれない。彼は生徒達が授業中寝ていようがサボっていようが、今まで基本的に放置する姿勢だった。珍しいことだったのだ。彼が注意するなんて。そう納得してしまったら、期待で胸がいっぱいになる。


 この前の金曜日、必死に伝えた想い。それが彼の中の私という存在を、不特定多数という認識から外してくれたのかもしれない、と。ただの生徒じゃなく、生徒の“神島麻耶”として。


 そこまで考え、ふと我に返る。違う、そんなに上手くいくはずがない。先生は一筋縄ではいかないひとなのだ。浮かれていきそうになる気持ちを抑え、私は必死に、勘違いをしては駄目だと自分に言い聞かせた。


 過剰に期待しても無駄に傷付くだけ。きっと彼の気まぐれだったに違いない。けれどどうしても、心のどこかで感じる喜ぶ気持ちを抑えられない。望みのない恋をしている私にとって、ほんの少しの可能性を見つけただけで、簡単に幸せな気分になるのだ。


 そんな浮かれた気分のまま、迎えた放課後。鞄に荷物を詰め終わって、ぼんやりと机に座ったままでいると、いつの間にか教室には私ひとりになっていた。


 まだ帰る気にはなれない。こうして結構な時間、ただ座っているのは、迷っているから。先週の金曜日に押しかけたばかりなのに、また質問を口実に先生に会いに行ってみようかなんて、いつもの私なら躊躇するようなことを考えて。


 けれどそれを行動に移すにはかなりの勇気が必要で、まだ決心できずにいた。そうして俯き加減に黙って座っていたら、不意に教室に誰かが入ってくる気配がして、ふと見てみるとそこには見慣れた姿が。


「……タカシ?」


 声をかけると、タカシはいつもよりどこか不機嫌な様子で、かかとを踏んだ上履きを引きずるようにして私の席の前まで歩いてきた。


 肩に引っ掛けていた鞄を乱暴に前の席の机の上に置くと、タカシはその表情と同じに不機嫌な声を出した。


「先週の金曜の放課後。何してたんだよ? 俺、麻耶に話したいことがあったのに」


 先週の金曜日――先生に告白した日。一瞬動揺しかけたけど、すぐに自分に落ち着くように言い聞かせた。別に約束しているわけじゃないけど、今まで金曜日の放課後はタカシの話を聞いてあげることが多かった。


 けれど、先週は私は教室にいなかった。タカシはそれを怒ってるだけ。だから私が謝ればいいだけ。後ろめたいことなんて、何もないんだ。そう思い、作り笑って私はタカシを見た。


「ごめんね。……ちょっと、用事が……」

「月原に何の用事?」


 どきり、とした。一瞬にして作り笑う余裕をなくす。曖昧ににごまかそうとしたのに、タカシの口から思いもよらない言葉が出てきて、私は混乱して言葉に詰まった。


 先生に告白しただなんて、噂にでもなったら大変なことだ。私だけの問題じゃない。先生にも迷惑をかけかねない。どうしてタカシが知っているのか、先生に告白したことがばれたのか、どうやって言い逃れればいいのか。


 そんなことを必死に考えながら返事にまごつく私を一瞥すると、タカシはどこか責めるような口調で続ける。


「教室にいなかったから、探してたんだ。で、偶然、英語準備室に入ってくお前を見た」

「……ちょっと質問があっただけだよ」


 やや苦笑いになりながらも、私は平静を装って言った。タカシは何か言いたそうに口を開きかけたけど、言うのをやめたみたいだった。言葉の代わりにため息を漏らしてから、タカシはやれやれといった表情になった。


「あいつ、あの顔だから生徒からモテるよな。でもあいつは教師だろ。生徒の気持ちなんて、ただの重荷にしかならないんじゃねーの」


 語尾を苛立ったような声で強め、言い捨てるようにそう言って。乱暴に机にのせていた鞄を掴みあげると、タカシは投げやりな歩き方で教室を出ていった。ひとりぽつんと教室に残されて、まるで自分がすごく浅はかな人間みたいに思えてくる。


 ショックだった。先生に恋をする。先生に告白する。――全部、独りよがりなんだ。先生はセンセイだってこと。私は生徒だってこと。先生の立場。そんな現実を、私は無視しようとしている。

 

 タカシにはバレてしまったのか。それも問題だけど、でも今一番悲しいのが、タカシの軽蔑でもするような呆れた表情と、その言葉の意味。やっぱり私は生徒だから、彼を好きになるべきじゃないんだと。先生への気持ちに後ろめたさなんて感じたくなかった。


 ――私は、何か悪いことをしているの……?

 自分に問いかけた瞬間、瞬時に脳裏に浮かんだ、あの苦い夜、車の中で見つめた先生のきれいな横顔。


 気づけば、体が勝手に動いていた。急いで席を立ち上がって、教室を出る。そしてそのまま、走った。ただひたすらに。

 

 どうしても、会いたかった。例え彼が優しくなくても。冷たく突き放されるかもしれなくても。今、どうしても彼に会わないと、私の心が壊れそうだった。


 告白をしに行ったあの金曜日のように、息を切らして準備室へ向かう。けれど今はあのときよりもずっと切羽詰まっている。重荷だなんて、そんなこと考えたくなかった。


 勢いのまま辿り着いた準備室の扉をノックして、そこで我に帰る。先生の気だるげな返事を聞いて、途端に足がすくんだ。しばらくなすすべなく立ち尽くしたまま黙っていると。やがてもう一度先生の少し苛立ったような返事とともに、扉の向こう側から近づいてくる足音。


 動けなかった。どうかたった一度のノックのことなんて無視して。私のそんな願いもむなしく、扉は容赦なく開けられた。


「……また君か」


 先生は扉の前に立つ私の姿を確認すると、すぐに重たい溜息を吐きながら、呆れたようにそんな言葉をもらした。胸に耐えがたいほどの鋭い痛みが走りぬける。先週の金曜日、先生に告白した時、ここに立っていた私なら、こんなことに落ち込まなかった。


 けれどタカシからあんなことを言われたばかりの今。先生の言葉はどうしようもなくショックなものだった。先生の顔が見れない。


 冷たくしないで。迷惑がらないで。

 私の気持ちも想いも、先生にはただの重荷にしかならないの……?

 そんなことを思うと、どうしようもない悲しみが、急激に私の瞳の奥から込み上げた。


 強くなりたい。先生への想いを守りたい。逃げない。そうやって決心して先生と向き合うつもりでいた。けど本当は、そんな強がりはやっぱり強がりでしかなくて。タカシのたった一言、そんな小さなことで簡単に揺らぐ。


 だめだ、先生の前に居るこんな時にこんなところで、泣くなんて。先生は、泣いたって動じてはくれない。涙なんてそんなもので捕まえられるほど、先生は甘くない。わかっていた。けれどわかっていても涙を止めることはできず、私は声もなく涙を流し続けていた。


「……中に入れ」


 ふと、涙を流す私に向かって先生がそんなことを言ったので、その言葉の意味を理解するのに数秒かかってしまった。


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